アニメ『憂国のモリアーティ』の舞台になっているヴィクトリア朝(1837-1901)末期のイギリスは激動の時代であると同時に最盛期でもありました。
今回は、テレビアニメ『憂国のモリアーティ』で描写されているヴィクトリア朝イギリスの文化について解説していきます。
ニコ・トスカーニ
以下、その前提で話を進めます。
目次
【ネタバレ】『憂国のモリアーティ』で描かれるヴィクトリア朝文化を解説
ヴィクトリア朝(1837-1901)末期のイギリスは、国力の最盛期でした。
国力が強いということは、それだけ経済力が強いということにもなります。
ニコ・トスカーニ
労働時間も、時代とともに短縮されていました。
1850年時点の週平均労働時間は60-65時間でしたが、1870年代前半には54-56時間が標準になっています。
余暇が増えれば、当然娯楽に消費できる時間も増えます。
加えてこの時代は教育法の改正により義務教育が整備され、国民の識字率が劇的に向上していました。
そんな背景で生まれたのがあまりにも有名すぎる「シャーロック・ホームズ」シリーズです。
第一作である『緋色の研究』は1887年に出版され、40年以上にわたってシリーズは存続しました。
名探偵の宿敵、犯罪王
『憂国のモリアーティ』の主人公ウィリアム・ジェームズ・モリアーティは、アーサー・コナン・ドイル(1859-1930)のシャーロック・ホームズシリーズに登場するモリアーティ教授を元にしています。
ニコ・トスカーニ
モリアーティ教授ことジェームズ・モリアーティは、名探偵シャーロック・ホームズの最大の敵役として登場するキャラクターです。
表の顔は地方大学の数学教授(ダラム大学と推測されています)ですが、裏の顔は多くの犯罪者の後ろで糸を引く超大物知能犯で「犯罪界のナポレオン」と呼ばれています。
『最後に事件』でついにホームズと直接対決し、ライヘンバッハの滝で転落死しています。
ドイルは本当はここでシリーズを終わらせるつもりでしたが、読者から猛抗議を受けて渋々復活。
さて、そんな超大物敵役ですが、モリアーティ教授はドイルの原作ではびっくりするぐらい登場機会が少なく、そのほとんどはホームズの口から語られる伝聞の描写です。
それもそのはずで、モリアーティ教授はドイルがホームズシリーズを終わらせるために創造したある種のマクガフィン(話を動かすための物、人、場所など。それ自体に特別な意味はない)みたいなものでした。
ニコ・トスカーニ
なので、『憂国のモリアーティ』はドイルの原作を活かしつつも、大幅にオリジナルな肉付けをされています。
数少ない原作派生の設定だと、モリアーティ教授に兄弟が二人いるところでしょうか。
コナン・ドイルの原作で、少なくともモリアーティには二人の兄弟がいることが明言されています。
モリアーティ教授の兄弟であるジェームズ・モリアーティ大佐が教授の名誉を回復しようと投書をしたという描写があり、アニメで長男のアルバートが軍人になっているのはこの原作設定が元でしょう。
モリアーティ教授の別の兄弟は、駅長をしていると語られています。
モリアーティ教授とモリアーティ大佐がどちらも同じ「ジェームズ・モリアーティ」であることから膨らませて、『憂国のモリアーティ』ではモリアーティ教授はウィリアム・ジェームズ・モリアーティ、モリアーティ大佐はアルバート・ジェームズ・モリアーティという名前になっていました。
末の弟はルイス・ジェームズ・モリアーティになっています。
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ちなみにモリアーティ教授は様々な創作物に登場しましたが、本作のように義賊として描かれたのは初めてです。
ニコ・トスカーニ
ヴィクトリア朝の上流階級
社会階級は『憂国のモリアーティ』でキーとなっている要素ですね。
ドイルの原作では限られた描写しかないモリアーティ教授ですが、本作のウィリアム・ジェームズ・モリアーティは孤児から貴族の養子になり、階級制度を憎み、それを破壊しようとする人物に肉付けされています。
さて、では具体的にヴィクトリア朝当時にはどのような階級があったのでしょうか?
大雑把に分けて上流階級、中流階級、労働者階級がありました。
まず、一番上の階級が上流階級です。
上流階級を構成するのは王室、貴族、ジェントリです。
ニコ・トスカーニ
貴族は爵位を持つ特別な特権階級です。
上から順に公爵(duke)、侯爵(marquessまたはmarquis)、伯爵(countまたはearl)、子爵(viscount)、男爵(baron)の階級があります。
『憂国のモリアーティ』の主人公であるモリアーティ一族は伯爵の家系です。
ヨーロッパ貴族の歴史は古く、古代ローマ、古代ギリシャにはすでに貴族制が存在しました。
中世に封建制度と専制君主制が成立すると貴族は君主から諸侯として地域を支配する役割を与えられ、やがて諸侯は資本家になり、高度な資本主義社会が誕生し、革命が起きて専制君主制から民主主義へと移行していきます。
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イギリスの議会には普通選挙で議員が選出される庶民院と高位聖職者、世襲貴族の議員、任命された議員が選出される貴族院の二つが存在します。
1911年の議会で庶民院の優越が法律で明文化され、庶民院は貴族院に比べて強い権限を持っています。
こちらは明文化されていませんが、20世紀以降は貴族院から首相を選出しないことが慣習になっており、ここ100年、貴族院議員からは首相が誕生していません。
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貴族の収入源は土地です。
所有する土地で小作人を働かせ、土地から上がる収入で生活をしていました。
なので、貴族、特に跡取りである長男は基本働きません。
次男や三男などは学者、軍人などになる場合が多く、次男坊のウィリアムが数学者になっているのは当時の世相を反映しています。
長男のアルバートが軍人になっているのは、コナン・ドイルの原作へのオマージュでしょう。
貴族は労働の必要が無い代わりに、いわゆる「ノブレス・オブリージュ」を求められました。
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劇中だとアルバートは軍人だし、少年時代に孤児院を訪ねる慈善活動を行っている描写がありました。
この辺はイギリスに限らず、ヨーロッパ上流階級では大体同じような感じだったようです。
フランス王妃マリー・アントワネット(1755-1793)は高慢なバカ女として描かれがちですが、慈善活動に熱心だったことが記録に残っています。
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イギリスに庶民院と貴族院の二つがあることはお話しした通りですが、貴族院は今も無報酬で、1911年以前は庶民院も無報酬でした。
理由は、議員の多くが上流階級で多額の資産を持っていたからです。
アニメ第6話、第7話に登場した悪徳貴族のブリッツ・エンダースは、議員を務めている設定になっていましたね。
エンダースは自身の領地内で無辜の民を殺していましたが、イギリスに限らずヨーロッパ貴族が庶民を相手に連続殺人を犯していた例はいくつかあります。
有名な例だとフランスの軍人ジル・ド・レ男爵(1405-1440)は何百人もの少年を拉致、虐殺していました。
また、ハンガリーの有力貴族バートリ・エルジェーベト(1560-1614)は多くの若い女性を虐殺していました。
ニコ・トスカーニ
上流階級を構成するもう一つの階級がジェントリです。
ジェントリは下級の地主で、貴族の下に位置する社会階級です。
家柄や所得規模に応じて准男爵(baronet)、ナイト(sir)、エスクワイア (esquire) に分類されていました。
『憂国のモリアーティ』ではアニメ第5話に登場したダドリーが自身の身分を「ジェントリ」と名乗っていましたね。
ジェントリの生活を描いたものとしてジェーン・オースティン(1775-1817)の作品が挙げられます。
『高慢と偏見』は何度も映像化されているオースティンの代表作ですが、同作は田舎のジェントリの生活を描いた作品としても知られています。
映像だとイギリスBBCのテレビドラマ(1995)や、ジョー・ライト監督、キーラ・ナイトレイ主演の『プライドと偏見』(2005)などが代表例です。
何かしらの功績を残した人物は現代でもナイトの爵位を叙勲されますが、ナイトは一代限りの名誉で世襲されません。
ニコ・トスカーニ
外国人が叙勲する場合もあり、トヨタ自動車会長の豊田章一郞氏も叙勲しています。
日本人ではなく日系人ですが、ノーベル賞作家のカズオ・イシグロも受勲しています。
現在では民主主義国家となったイギリスですが、21世紀の現在も少ないながら貴族の家系は現存しています。
『キングスマン』(2015)などで知られる映画監督のマシュー・ヴォーンは、セント・オールバンズ公爵位に連なる貴族の末裔です。
中流階級、労働者階級
ニコ・トスカーニ
中流階級は頭脳労働の担い手たちです。
医者、弁護士、経営者、軍将校、金融業者などですね。
その中でも特に豊かな人たちがいわゆるブルジョア階級で、上流階級と同じように使用人を雇って雑事を任せていました。
上流階級と違うのは、労働をしなければならないことです。
また、中流階級にもピンからキリまであり、中流でも貧しい家庭は労働者階級と大差ありませんでした。
イギリスの国民的作家チャールズ・ディケンズ(1812-1870)は貧しい中流階級の出身で、少年時代に生家が破産しています。
ディケンズは少年時代から工場や新聞社などで働き、それが作家としての礎になりました。
ニコ・トスカーニ
その下が労働者階級で、数で言うなら最も多かったのがこの階級です。
労働者階級は工場労働者や、小作人、街頭商人、使用人、職人などの肉体労働がおもな職業です。
熟練の職人には自らも使用人を雇う豊かな人もいたようですが、多くは生きていくのがやっとの生活水準でした。
前述のとおり労働時間は時代とともに短縮され、生活は少しずつマシなっていきましたが、それには長い時間がかかり劣悪な労働環境で働くのは普通のこと。
炭鉱や工場では有害な粉塵を吸い込んだことで、40代で病死するような労働者が多く存在しました。
ニコ・トスカーニ
当時にも貧民を救済しようという考えはありました。
が、方法が問題だったのです。
この時代の基本的な考えは「貧しいのは自己責任」です。
ニコ・トスカーニ
救貧院の解決策は「働かせる」でした。
救貧院が貧民にやらせてた仕事にはこんなのがありました。
- 貧しい食事で壊血病になる例が後を絶たず
- 高いマストに登って帆を張る(危険)、戦闘に参加する(危険)などの職務内容
- 仕事で失敗すると鞭打ちの刑
- 6歳以下の子供だけがつく仕事
- 火薬包を火薬庫から大砲まで運ぶ(危険)、戦闘中ももちろんやる(危険)
- 煙突は狭いので体の小さい少年にうってつけの仕事
- 煙突に挟まる、煙突内を転落する、煤を吸い込みすぎて呼吸器系をやられるなど危険づくしの底辺労働
これらはストリートチルドレンや孤児が「慈善事業」として就労させられていた仕事です。
救貧院の環境も劣悪でした。
貧相な食糧事情で、救貧院の少年たちは常に飢えに苦しんでいました。
救貧院に入りたくないがためにストリートチルドレンになって、どぶさらいや物乞いをしていた子供もいたぐらいです。
ニコ・トスカーニ
シャーロック・ホームズが調査に協力させているベイカーストリートイレギュラーズの少年たちは、そういった過程を経てストリートチルドレンになったのでしょう。
そっちの方が賢い選択に見えますね。
ニコ・トスカーニ
さて、それで『憂国のモリアーティ』から100年以上が経った現代ですが、ヴィクトリア朝当時ほど露骨ではないにしても現代のイギリスにも階級意識は存在します。
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現代において労働者階級が成りあがる方法は主に三つで「スポーツ」「音楽」「勉強」です。
勉強で最も大きく出世した例だと、第68代イギリス首相エドワード・ヒース(1916-2005)でしょうか。
ヒースは大工の息子というバリバリ労働者階級の出身ですが、世界的な名門のオックスフォード大学を卒業したのち陸軍、マスコミ、銀行などを経て政界入りし、のちに首相に就任しました。
成り上がりの分かりやすいところだと音楽とスポーツでしょうか。
スポーツだと例は山ほどいますが、一番有名なのは元サッカーイングランド代表のキャプテン、デヴィッド・ベッカムでしょう。
ベッカムはロンドンの下町出身で、父親は配管工、母親は美容師。バリバリの労働者階級出身です。
ニコ・トスカーニ
対照的なのが、同時代にイングランドスポーツ界のアイコンだったジョニー・ウィルキンソンでしょうか。
ラグビーイングランド代表の主力選手だったウィルキンソンは学業も優秀でダラム大学に進学(後に中退。劇中でウィリアムが教鞭をとっている大学)しています。
音楽も労働者階級が多い分野です。
国力に反してクラシックがあまり発展しなかったイギリスですが、ロックは大いに発展しました。
イギリスロック界のアイコンと言えばまずはビートルズですが、ジョン・レノン(1940-1980)もポール・マッカートニーもバリバリ労働者階級の出身です。
もうちょっと下の世代だといかにもな感じなのが、元オアシスのノエルとリアムのギャラガー兄弟です。
ニコ・トスカーニ
対照的なのがレディオヘッドとコールドプレイでしょうか。
レディオヘッドのトム・ヨークは父親が物理学者でパブリックスクール(いいところの子女が通うトップクラスの私立校。伝統的に全寮制の男子校でしたが、現代では女子も入学可能。学費が極めて高額)からエクセター大学に進学。
コールドプレイのクリス・マーティンは父親が公認会計士、母親が音楽教師。
パブリックスクールからロンドン大学に進んでいます。
レッテル貼りは良くないですが、彼らの音楽には何となく生まれ持ったバックグラウンドの差みたいなものがある気がします。
ニコ・トスカーニ
意外なところだと、ローリングストーンズのミック・ジャガーは結構いいところの出で、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスという名門大学に通っていました。
プロデビュー後もこのままミュージシャンになるか、国税局に就職するか悩んだらしいです。
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階級と匂い
ニコ・トスカーニ
ここからは、劇中で描写されているヴィクトリア朝の文化についてです。
『憂国のモリアーティ』劇中で匂いについての言及がありますが、純然たる比喩表現ではなく本当に上流階級と労働者階級の間には匂いに大きな違いがあったようです。
19世紀は科学が大きく発展しました。
ニコ・トスカーニ
衛生観念の発達とともに、上流階級は体を洗う習慣を身に着けました。
ヴィクトリア朝時代には、苛性ソーダと動物性脂肪でつくった石鹸が存在したのです。
19世紀後半になるとラベンダーや薔薇の匂いが添加された石鹸も登場し、人気を博しました。
ヴィクトリア朝の上流階級の間では、化粧水や香水の匂いにも流行があります。
1840年代はベルガモットオイルとレモンオイル、1880年代から1890年代には麝香、龍涎香、パチョリなどが好んで使われていました。
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残念ながら、当時の石鹸はそんなに安い代物ではありませんでした。
ヴィクトリア朝初期、4オンス(約113グラム)の固形石鹸の値段はかなり大きな骨付き肉と同等の価格です。
19世紀末にいたる技術革新で値下がりしたものの、それでも体を洗い洗濯をするぐらいの量の石鹸を買うには、平均的な労働者階級の週に5パーセントぐらいの予算が必要でした。
すると、匂いの違いは比喩表現ではなく、実際のものだったのは想像に難くありません。
ヴィクトリア朝文学を代表する大作家ウィリアム・メイクピース・サッカレー(1811-1863)は、『ペンデニス』の中で「不洗民(グレート・アンウォッシュト)」という言葉を作りましたが、これは労働者階級のことを指します。
ニコ・トスカーニ
時代が進みヴィクトリア朝の末期になると、大衆市場にラベンダーオイルやコールタールから科学的合成した香料、匂い付きの石鹸などが出回るようになりました。
こういった安価な合成香料と麝香などの高価な原料を使った香料は別物で、やはり匂いは階級を隔てていたようです。
階級と服装
ヴィクトリア朝当時、階級にかぎらず共通していたのは露出が少ないことです。
当時は足首を見せるのさえ下品と考えられており、体を覆う服が好まれました。
ニコ・トスカーニ
また、当時の医学では体を覆うことが病気の予防につながるという考えがあり、衛生面からも露出を避けた服装が好まれました。
階級はもちろん、都会と田舎でも服装に差が。
都会の労働者は濃い色のウールの服、田舎の労働者は薄い色の綿の服を着ていました。
労働者階級の男性はズボンとベストが典型的な服装でしたが、都会の労働者がジャケットを好んだのに対し、田舎の労働者はスモックを羽織ることを好んでいたのです。
理由はスモックの方が、簡単に裁縫できるから。
当時の労働者階級は自分で服を繕ったり、自分で裁縫したりするのが当たり前でした。
ジャケットよりも大雑把な作りのスモックは安くて簡単で、しかも実用的だったのです。
ところがこういった差異は時代とともに姿を消していきます。
『憂国のモリアーティ』は19世紀末の設定ですが、このころには田舎の労働者(一部の保守的な人を除いて)も都会の労働者と同じような格好をしていました。
ニコ・トスカーニ
ただし、ズボンを泥で汚したくない田舎の労働者は、ゲートルを履いていたようです。
対して都会の労働者は好んでスカーフをつけていました。
色については黒など濃い色が好まれました。
当時の燃料源が主に石炭だったので、石炭を炊いた時に出る煤でついてしまう黒い汚れが目立たないように、特に都会の男性が黒を好んでいたようです。
黒は褪せやすい色ですが、19世紀は化学が発達し濃い色でも褪せにくいように進化していました。
その一方で明るい色に染色する技術も進歩し、女性は明るい色の服を好んで着ました。
ニコ・トスカーニ
『憂国のモリアーティ』は男性比率の高い作品ですが、劇中登場するキャラクターが着ている服も黒、紺など濃い色が多いですね。
数少ない女性キャラであるハドソンさんは明るい色の服を着ています。
19世紀初頭から半ばにおいて上流階級男性のおしゃれと言えば、フロックコートでした。
時代を下ると流行も変化し、ウエストがだんだん細くなって礼服になりました。
現代のスーツは上流階級の普段着が変化したものですが、1890年代になると上流階級男性の服装は今日のフォーマル・スーツに近い形になります。
この頃になると労働者階級の晴れ着と、休暇で寛いでいる上流階級の服装は大差ないものになっていました。
違いは労働者階級の大量生産品はサイズが大雑把で体にフィットしておらず、生地もくたびれやすいもの。
19世紀半ばにアメリカでミシンが発明されるとそれがイギリスにも伝搬し、ミシンを使った大量生産の既製品が安く手に入るようになりました。
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労働者階級が着ていたのはそういった大量生産品です。
その一方で、上流階級は変わらず手縫いのオーダーメイド品を着ていました。
ミシンが登場しても、体にピッタリ合った服を仕立てる複雑な作業は手作業の方が楽だったからです。
オーダーメイド品だったので生地の質も良く、体によく馴染んでました。
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現代のイギリスだと、ロンドンのサヴィル・ロウ通りがその伝統を受け継いだ存在として有名です。
サヴィル・ロウは19世紀半ばごろに基礎が築かれ『憂国のモリアーティ』の舞台である19世紀末には多くの高級紳士服店が軒を連ねていました。
21世紀以降、再開発によりサヴィル・ロウの紳士服店は多くが移転、閉店しましたが幾つかの店はまだ現役稼働中で、オーダーメイドの紳士服を誂えてくれます。
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シャーロック・ホームズが荒っぽい口調な理由
『憂国のモリアーティ』は日本の作品であるため、全員日本語で話していますが、本作で脇役に回っているシャーロック・ホームズは労働者階級の出身であると設定されています。
オックスブリッジの出身ともいわれていましたが、オックスブリッジとはオックスフォード大学とケンブリッジ大学のことです。
アニメではウィリアムがシャーロックのことを「労働者階級の訛り」と言っていましたが、原作漫画では「コックニー」とルビを振られていました。
ニコ・トスカーニ
彼らの言葉には独特の訛りのほかに、コックニー・ラビット、またはライミング・スラングと呼ばれる独特の俗語表現があります。
コックニーが住んでいたエリアは、イーストエンドなどのロンドンの貧民街でした。
19世紀に貧民街で違法な商売をしていた人々が周りに悟られないように、編み出した符丁がその始まりと言われています。
その成立過程は極めて独特です。
本来の言葉と韻を踏む(ライミング)フレーズを当て嵌め、フレーズの最初の単語だけを本来の単語の意味として使います。
例としてこんなのがあります。
以下、ライミング・スラング/韻を踏んでいるフレーズ/通常の英語/日本語の意味の順で表記しています。
- bread/ bread and honey /money /金
- pork/ pork chops /cops /警官
- tea/ tea leaf /thief /泥棒
つまりコックニーが「bread(パン)」と言った場合は「money(金)」の意味で、「tea(お茶)」と言った場合は「thief(泥棒)」を意味します。
ニコ・トスカーニ
『空飛ぶモンティ・パイソン』(1969-1974)にはコックニーの符丁を使う大英帝国空軍飛行士のエピソードがあります。
ガイ・リッチー監督の『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』(1998)も映像作品におけるコックニーの例として知られています。
『憂国のモリアーティ』はイギリスでも放送されているようですが、英語版ではどうなっているのか気になるところです。
ところで、『憂国のモリアーティ』は登場人物の大半が男性ですが、上流階級も下層階級も関係なく短髪で帽子をかぶっています。
上流階級はシルクハット、都会の労働者階級はフラットキャップをかぶっていました。
当時の男性にとって長髪は「おしゃれでない行為」であり、劇中のシャーロックのように帽子もかぶらず長髪を後ろで束ねるスタイルは、相当アブノーマルな格好だったはずです。
ニコ・トスカーニ
本名と愛称
劇中、ウィリアムと再会したシャーロックが、ウィリアムのことを「リアム」と呼んでいました。
アメリカやイギリスのテレビドラマや映画をよく観る方なら何となくわかったかもしれませんが、英語圏の人の名前にはある程度パターンがあり、名前ごとに典型的な愛称があります。
ヨーロッパはローマがキリスト教を国教と定めて以降、キリスト教文化圏になっていったため、典型的なヨーロッパ人の名前はキリスト教に由来するものが多いです。
また、イングランド人の祖先はゲルマン系のアングロサクソン人なのでドイツ語に由来する名前もあります。
あと、神話とか伝承に由来する名前も。
ニコ・トスカーニ
- ウィリアム=古代ドイツ語のWillahelm に由来。Willa は「意志」、helm は「兜」の意味。
- ジョージ=聖人ゲオルギウスに由来。ジョージは英語読み。フランス語読みだとジョルジュ、ドイツ語読みだとゲオルク、イタリア語読みだとジョルジョ。
聖ジョージはイングランドの守護聖人でもあります。
- メアリー=マリアの英語読み、聖母マリアに由来。
ニコ・トスカーニ
- ウィリアム=ウィル、リアム、ビリー
- チャールズ=チャーリー、チャック
- ジョージ=ジョージー
- デイヴィッド=デイヴ
- マイケル=マイク、ミック、マイキー、ミッキー
- ロバート=ロブ、ボブ、ボビー、バーティー、バート
- ケネス=ケン、ケニー
- アンソニー=トニー
- リチャード=リック、ディック
- アンドリュー=アンディ
- ジョナサン=ジョン
- アーサー=アート
- エリザベス=エリー、リズ、ベス
- キャサリン=ケイト
- アンナ=アニー
- ヴィクトリア=ヴィッキー、トリ、トリア
- レベッカ=ベッキー、ベッカ
- ジェーン=ジャネット、ジェニー
- エマ=エミー
- リリー=リリ、ライラ、リリア、リル
- オリヴィア=オリー、リヴ
- メアリー=ポリー、モリー、マイ
シャーロックがウィリアムのことを「リアム」と呼んでいるのは決して俺様ルールではなく、ある程度定まったパターンの愛称を呼んでいるだけです。
ニコ・トスカーニ
ヴィクトリア朝と薬物
『憂国のモリアーティ』第5話でルシアンが入り浸っていた場所は、はっきり明言されていませんでしたが、アヘン窟でしょう。
アヘン窟はアヘンの売買と喫煙をしていた施設で、19世紀当時世界各地に存在し、特に北米、イギリス、フランス、南アジア、中国でよく見られました。
イギリスは中国で採れるお茶が欲しかったため、植民地のインドで採れたアヘンを中国に輸出し、中国からお茶を輸入していました。
これがアヘン戦争に繋がることは、世界史を勉強した方なら何となく覚えているかと思います。
当時、アヘンの危険性は十分に理解されていませんでした。
1868年の薬事法でアヘンは危険な薬物として、登録された薬剤師と化学者しか扱えないことになっていましたが、『憂国のモリアーティ』の舞台である19世紀末になってもアヘンの危険性を訴える医師や科学者は少数派でした。
1830年代の記録に残っている「ゴドフリーの強壮薬」は、滋養強壮薬として販売されていましたが材料は純アヘンです。
アルコールとモルヒネを材料にしたストレート・アヘンチンキも、一般的に使用されていた記録が残っています。
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しかし、法改正により19世紀末にはロンドンからアヘン窟は姿を消すことになります。
海の向こうのアメリカでは、20世紀初頭まではアヘン窟は普通に存在していたようです。
1920年代のニューヨークを舞台にした『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984)にも、アヘン窟が登場します。
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シャーロット・ブロンテ(1816-1855)の古典的名作『ジェーン・エア』は幾度も映画化されていますが、これは同時代における身分違いの恋の作品ですね。
自由恋愛はヴィクトリア朝の社会通念に反する行為であり、当時は相当な反響があったようです。
比較的最近の創作だとヴィクトリア朝時代が舞台になっているアニメ『英國戀物語エマ』、イアン・マキューアンの『償い』、およびそれを原作とした映画『つぐない』(2007)は第二次大戦時が舞台ですが、まだ身分意識が残っており、これもまた身分違いの恋を描いています。
『英國戀物語エマ』はヴィクトリア朝時代の事物を丹念に描いており、歴史好きの方にはお勧めです。
『憂国のモリアーティ』でははっきり描写されていませんが、コナン・ドイルの原作同様ホームズには薬物依存のきらいがあるようです。
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上流階級と温室
アニメ第4話で、温室で栽培したグレープフルーツが出てきました。
グレープフルーツは亜熱帯を原産にする植物で、イギリスの気候では栽培が難しい植物です。
イギリスは古くから園芸に熱心な国で、世界遺産キュー王立植物園が設立されたのは1759年のことです。
植物園では、お茶や天然ゴムなど有用性の高い植物を品種改良していました。
旧植民地のシンガポールにある世界遺産シンガポール植物園も、同地を開拓した英国人のトーマス・スタンフォード・ラッフルズ(1781-1826)や植物学者たちによって設立されたものです。
園芸に熱心な英国人が温室栽培を導入するのは当然の結果で、温室栽培によって本来ブリテン島の風土では育ちにくい植物の栽培が可能になっていました。
グレープフルーツもそうですが、温室栽培の成果と言えばキュウリがその代表例として挙げられます。
アフタヌーンティーはヴィクトリア朝に始まった文化ですが、アフタヌーンティーで上流階級が決まって出していたのはキュウリのサンドイッチです。
今の感覚では何だか貧乏くさく見えてしまいますが、キュウリを出せるということは、当時としてはその家が十分な土地と温室設備を持っていたことを意味していました。
ニコ・トスカーニ
第4話で登場したベルファー子爵は有力貴族のウィリアムたちに自身の温室を披露し、惜しげもなくグレープフルーツを振舞っていましたが、温室でしか育たない植物を振舞うことで自らのステータスを誇示し、ついでに上流貴族のウィリアムたちに取り入ろうとしていたのでしょう。
ヴィクトリア朝の交通手段
『憂国のモリアーティ』第10話、11話で鉄道が出てきました。
鉄道は産業革命で誕生した重要な技術の一つです。
1838年にはグレートウェスタン鉄道が列車の運行を開始しており、ロンドンとイングランド西部、南西部、ウェールズを繋いでいました。
ニコ・トスカーニ
ヴィクトリア朝時代には山ほどの鉄道会社が誕生し、1900年時点で160もの鉄道会社が存在しました。
20世紀以降、これらの鉄道会社は統廃合されていくことになります。
また、劇中には登場していませんが1863年には世界最古の地下鉄であるロンドン地下鉄が開通しています。
当初は地下鉄の存在価値に懐疑的な人も一定数いたようですが、1882年には一日当たりの通勤利用者数が2万5,700人近くまで増加していました。
技術の進歩により料金体系も改善。
地下鉄は当初、蒸気機関でしたが1890年には電化が開始され、1900年にはわずか2ペンスで利用できるようになっていました。
ニコ・トスカーニ
『憂国のモリアーティ』第8話、9話では馬車が登場しました。
このエピソードはコナン・ドイルの原典では、(大幅にアレンジされてますが)第一作である『緋色の研究』に該当します。
シャーロックとジョンが乗っていたのは、辻馬車(ハンサムキャブ)でしょう。
辻馬車は駅などの決められた場所で客待ちをし、目的の場所まで送り届けて運賃をもらう現代のタクシー(キャブ)みたいなものです。
BBCのテレビドラマ『SHERLOCK』(2010-2017)では21世紀に舞台を移して辻馬車はタクシーになっていましたね。
また、もっと大型な乗合馬車(オムニバス)もありました。
乗合馬車は二階建てで、大抵の場合は一階に二十人、屋上に十六人乗れるようになっていました。
満員時の乗り心地は現代の満員電車以下で、一人当たりの座席の広さは地下鉄の座席の半分程度だったようです。
ニコ・トスカーニ
ヴィクトリア朝時代にも「通勤」は存在し、労働者はこういった交通機関を利用していたようです。
住み込みや職場の近所に家を借りて徒歩で通勤する労働者もいたようですが、ヴィクトリア朝末期になると通勤の悲喜こもごもは日常になっていました。
ニコ・トスカーニ
近代警察
舞台となっている19世紀末当時、長い歴史を誇るスコットランドヤード(ロンドン警視庁)は1829年に創設されたばかりのまだ新興の組織でした。
近代警察制度でイギリスに先んじていたのはフランスです。
『憂国のモリアーティ』劇中でも「この国は遅れている」とシャーロックがフランスを引き合いに出して批判していましたが、私立探偵シャーロック・ホームズが当時の人に好まれたのは、まだまだイギリスの警察が未熟な組織だったからです。
わが国で近代警察の基礎を築いた川路利良(1834-1879)も、フランスを手本にしています。
18世紀末のフランス革命後、フランスの警察は大きく改革されました。
世襲制度の廃止、警察行政地区の変更、警察委員に任期を定め、選挙で再選されなければ失職などが主だった改革内容です。
警察の近代化をジョゼフ・フーシェ(1759-1820)がさらに推し進め、元々犯罪者だったフランソワ・ヴィドック(1775-1857)はパリ警察の密偵から国家警察パリ地区犯罪捜査局(現在のパリ警視庁)の創設者になり、後に世界初の私立探偵になりました。
ヴィドックは合理的な捜査方法を確立した人物で、フランス映画『ヴィドック』(2001)の題材にもなっています。
コナン・ドイルもヴィドックから作品の着想を得ています。
ニコ・トスカーニ
【ネタバレ】『憂国のモリアーティ』で描かれるヴィクトリア朝文化を解説まとめ
以上、いかがでしたでしょうか?
ヴィクトリア朝は多くの作品で舞台になり、ヴィクトリア朝の歴史本も山ほど出ている魅惑の時代です。
筆者は今までに4度渡英していますが、また行きたいと切に望んでいます。
海外渡航が再開される日を願って、この辺で今回の締めくくりとさせていただきます。