毎年の暑い時期と言えば…安易ですが、やはり怪談ではないでしょうか。
江戸時代には暑気払いとして怪談がすでに流行していた記録がありますが、「肝を冷やす」「背筋が凍る」という慣用句の通り、どうも怖い話には本当に体を冷やす効果があるらしいです。
ある実験によるとマウスに天敵であるヘビの匂いを由来とする薬品をかがせたところ、首筋の体温が3度下がったそうです。
ニコ・トスカーニ
怪談は現代では完全に夏の風物となり現代俳句協会編の『現代俳句歳時記』には「幽霊」と「百物語」が夏の季語として採用されてます。
「幽霊」「百物語」に稲川淳二氏を加えて日本の三大夏の風物詩と言ってもいいのではないでしょうか。
というわけで今回はホラー映画、とりわけオカルトホラー(幽霊、妖怪、悪魔など超自然現象を扱ったホラー)のおすすめを怪談・妖怪・モンスターなどの歴史的、文化的背景の解説を交えつつ何本か挙げていきたいと思います。
目次
怪談にまつわるおすすめオカルトホラー映画【邦画】
邦画のホラーと一まとめにしましたが、歴史の匂いがする古典的怪談と現代の都市伝説に分類しました。
『怪談』(1965)
『人間の条件』(1959-1961)『切腹』(1962)などで知られる小林正樹監督の代表作です。
ニコ・トスカーニ
制作会社の文芸プロダクションにんじんくらぶは本作で抱えた負債が原因で倒産の憂き目にあっています。
興行的には失敗に終わったものの批評家筋からの評判は非常に高く、カンヌ国際映画祭の審査員特別賞を受賞、アカデミー賞の外国語映画賞(現・国際長編映画賞)の候補になりました。
ニコ・トスカーニ
本作は大半の部分を格納庫内に作ったセットで撮影しており、背景が(おそらく敢えて)書割風のリアリティーと対極を行くような表現をしています。
写実的であるよりもデフォルメさせた表現を選んだ日本絵画を思わせます。
いかにもなアート映画ですが、小林監督の演出は技巧の限りを尽くしており実に美しい映画です。
衣装や美術の鮮やかな色彩美はまるで絵巻物を見ているようです。
『怪談』は作家であり民俗学者でもあった小泉八雲(英名ラフカディオ・ハーン 1850-1904)の代表作『怪談』から選出した4本の短編を映像化しています。
4本それぞれがいかにも日本的な情緒の物語なので一本ずつ解説します。
原作が超有名な古典で、いまさらネタバレも何も無いと思うのでオチも含めて内容に触れていることをご了承ください。
ニコ・トスカーニ
『黒髪』
この話をものすごく乱暴に要約すると「死んだ妻が夫にもう一度会いたいが為に成仏せず、幽霊となって現れた」という感じになります。
この「死んだ妻が幽霊になって現れる」という物語は日本の古典的怪談において定番中の定番で、「幽霊が出てくる」ではなく「死んだ妻の幽霊が出てくる」というピンポイントな括りでアンソロジーが作れるぐらい山ほど類例があります。
ニコ・トスカーニ
それらの代表例である『諸国百物語』や『太平百物語』には死んだ妻の霊が出てくる話が山ほど収録されています。
さらに死んだ妻が出てくる話は2パターンに分類されます。
「恨みのあまり出てきて夫を呪い殺す」と「心配のあまり成仏できず現れる」です。
『怪談』のエピソード『黒髪』は後者の部類であり、典型的な日本の怪談の1パターンであると言えます。
ニコ・トスカーニ
もう片方の「恨みのあまり呪い殺す」だと何度も映像化されている『四谷怪談』が典型例です。
『雪女』
ニコ・トスカーニ
確認のため、一応概要を書きますと、怪異である雪女と若い木こり男の悲恋話です。
雪女は多種多様な日本の妖怪でも最も有名な存在の一つでしょう。
非常に古くから伝承があり、室町時代末期の連歌師である宗祇(1421-1502)の『宗祇諸国物語』に記述があることから、当時の時点で存在が知られていたことがわかります。
ニコ・トスカーニ
東北地方や北陸地方、岐阜、長野など豪雪地帯にはほぼ例外なく伝承が残っており、雪から生まれた儚くも恐ろしく美しい存在として描かれる場合が多いです。
また、雪女の物語で多いのが異類婚姻譚(人と人ならざる者の婚姻)のパターンで、『怪談』の『雪女』はまさにこれです。
異類婚姻譚は日本に限らず世界中にある物語の類型です。
ギリシャ神話の最高神であるゼウスは人間の女性との間に山ほどの子供をもうけています。
お隣の中国には女性に化けた狐が人間の男に嫁入りする『狐女房』という伝承があります。
アイルランドの伝承には人魚と人間が結婚し、子供をもうけたが人魚が記憶を取り戻して海に帰ってしまうという雪女の伝承を思わせる悲恋譚があります。
アイルランドの人魚伝説を歌った伝承歌
人類の考えた物語である以上、どこかしら似てくる、雪女の物語はそういう意味でユニバーサルな怪談話と言えるでしょう。
ニコ・トスカーニ
『耳無芳一』
これもまた、あまりにも有名すぎる物語なので説明は不要と思いますが、念のため煮詰めた説明をすると
「芳一という盲目の琵琶の名手がそれとは知らず、平家の亡霊に呼ばれて毎晩、琵琶を弾きに行き怨霊に憑りつかれる。心配した住職は芳一の全身に般若心境を書いて対策するが、耳にだけ経文を書き忘れ、怨霊に耳を引きちぎられてしまう」
という物語です。
ニコ・トスカーニ
この物語には非常によく似た『耳切れうん市』という物語があります。
『耳切れうん市』は江戸時代に編纂された『曽呂利物語』に収録されており、こちらは寺ではなく尼寺が舞台で、琵琶法師も芳一ではなくうん市という座頭になっています。
ニコ・トスカーニ
「?」という方のために勿論、説明しますが、それはハロウィンの本来の意味に由来します。
ハロウィンが欧米から入ってきたことで、キリスト教のお祭りだと思っている方も相当数いると思いますが、本来のハロウィンは古代ケルト人のアニミズム信仰を由来とするものでキリスト教は関係ありません。
古代ケルト人は秋の終わりに死者の霊が家族を訪ねてくると信じていましたが、時期を同じくして邪悪な精霊や魔女が現れるとも考えていました。
それら邪悪な存在から身を守るために仮面をかぶったことが現代では仮想パーティに変化し、今様ハロウィンになりました。
そんなハロウィンの日と同じように、『耳無芳一』は死霊が生者の世界に干渉する、この世とあの世の世界が近い物語です。
これは審判の日まで死者が復活することは無いと信じたキリスト教の世界観ではありえない物語で、逆に原始的なアニミズム信仰によくみられるパターンです。
古代のエジプトでは死者はいつか帰ってくるものと考えて、魂の帰り場所である肉体を保存するためにミイラを作る技術が進化しました。
メソポタミアの神話では冥界は地の底にあり、行き来可能な世界として描かれています。
八百万の神を信じる日本神話もアニミズム信仰の一種であり、この世とあの世は近い存在として描かれることが非常に多いです。
『耳無芳一』は「平家の怨霊」という結構具体的な実在の人物が出てきますが、これは日本の古典怪談のパターンであり、江戸時代に編纂された怪談集『玉箒木』には平安時代の文人である小野篁(802-853)の亡霊に連れられて冥府に旅をした男の物語が収録されています。
ニコ・トスカーニ
『茶碗の中』
「とある武人が茶店で水を飲もうと茶碗に水を汲み、顔を近づけると茶碗の水に見知らぬ男の顔が映っているのに気付く。水を入れ替えたり茶碗を変えたりしても、同じ男の顔が映っている」という発端から始まり、未完で終わってしまうモヤモヤするエピソードです。
未完で終わってしまっているため、水面に移った男の正体は不明。
怪異に遭遇した武人が最終的にどうなったのかも不明。
ニコ・トスカーニ
鏡面反射の効果で水面に物が写る水鏡には、古来より呪詛の効果があると信じられていました。
現代の都市伝説でも「午前0時に口に剃刀を咥えて水鏡を見ると、将来の結婚相手の顔が見える」というやつがあります。
水面に写った奇怪な何かというモチーフはおそらくここに由来しています。
実は日本の古典的怪談には「なんか奇怪なことが起きたけどよくわからないうちに終わった」というやつが結構多いです。
江戸文化の研究者でもあった杉浦日向子氏は『百物語』というまんまのタイトルの漫画を残しています。
著者が何を元にしているか明言していないため、元ネタ不明ですがおそらくは江戸時代に編纂された『諸国百物語』や『太平百物語』を元にしているものと思います。
ニコ・トスカーニ
古典ホラーの名作である岡本綺堂(1872-1939)の『青蛙堂鬼談』もこのようなモヤっと系のエピソードが多いです。
この曖昧な情緒の物語はいかにもな和製怪談で、この曖昧な情緒は日本の怪談ならではのものです。
ニコ・トスカーニ
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『リング』(1998)
現代の怪談といえば、やはり都市伝説ではないでしょうか。
都市伝説とは近現代に広がった口承の一種です。
都市伝説は話の骨子自体は古くからあるものが流用されている場合が多いです。
アメリカの有名な都市伝説「消えるヒッチハイカー」の伝承は「車から乗客が消える」というものですが、『諸国百物語』には「駕籠の客が幽霊だった」というパターンの類話があります。
「見ると一週間後に死ぬ呪いのビデオ」という「呪い」という伝統的怪談と「VHSビデオ」という現代のテクノロジーを融合させた『リング』の設定はいかにも都市伝説的です。
ニコ・トスカーニ
古典的要素を持ちつつも『リング』は非常に現代的な怪談でもあります。
それは登場人物が怪異に対して無力なことです。
耳無芳一は住職のお経のおかげで命は助かりました。
古典的な日本の怪談だと徳の高い僧侶や行者に救済されるパターンは非常に多いです。
また、日本の武人には妖魔退治の逸話を持つ人物が多く、彼らは怪談話にも登場します。
坂上田村麻呂(758-811)と言えば、初代征夷大将軍として誰もが教科書で知っている存在ですが、田村麻呂は妖魔退治の逸話にも事欠かない人物です。
岩手山に住んでいたと言われている鬼の大嶽丸を退治した逸話や、第六天魔王の娘である鈴鹿御前との悲恋など彼の伝説は中国地方から東北地方にまで幅広く残されています。
平安時代の武将、源頼光(948-1021)も妖魔退治の英雄という括りでは決して外せない存在です。
頼光は頼光四天王を従え、大江山の鬼の首魁である酒呑童子や土蜘蛛など京に巣食う数々の妖魔を退治したと伝えられています。
他、源為朝(1139-1170)の大蛇退治、藤原秀郷(891?-958/991?)の百足退治などこういった逸話は枚挙にいとまがありません。
日本一有名な剣豪であろう宮本武蔵(1564-1645)にも妖怪退治の伝説があります。
百物語に登場する名も無い武人も胆力満載であり、肝のすわった行動で妖魔を退けるというパターンは多いです。
ニコ・トスカーニ
2ちゃんねる(現・5ちゃんねる)上で、自然発生的に多くのネット怪談が登場しましたが、「くねくね」「八尺様」などの現代の怪異に人類はなす術がありません。
『リング』もそのパターンに当てはまります。
怪異に対し無力であることの絶望感はかなり強烈で、この無力なことへの絶望感が恐怖を増幅させています。
『リング』原作者である鈴木光司氏の小説を原作とした『仄暗い水の底から』(2002)も同系統の都市伝説的怪談と言えます。
同作は都会のマンションを舞台としていますが、ホラーとしての仕組み自体は「怨念」という古典的なもので、また登場人物が怪異に対して無力です。
ニコ・トスカーニ
このあたりに、現代型怪談の典型を見ることができます。
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怪談にまつわるおすすめオカルトホラー映画【洋画】
ニコ・トスカーニ
ヨーロッパでも特にイギリス人は怪談が大好きで、チャールズ・ディケンズ(1812-1870)、ラドヤード・キプリング(1865-1936)、アーサー・コナン・ドイル(1859-1930)、ダニエル・デフォー(1660-1731)などの錚々たる文豪が怪談を書いています。
では、イギリスの怪談でどんなパターンが典型かと言うとこれは幽霊屋敷ものです。
イギリス人は家にお金をかける人種で、ブリテン島が地震とほぼ無縁であるため建物の保存性が非常に高いです。
そのためイギリスには古い立派な建物が数多く残っています。
ニコ・トスカーニ
シェイクスピアを生んだイギリスは劇場が山ほどありますが、格の高いと言われている劇場には少なからず幽霊譚があります。
ニコ・トスカーニ
ロンドンやオックスフォードなど歴史の深い街ではそういったいわくつきの場所を巡るウォーキングツアーが定期的に催行されています。
ニコ・トスカーニ
『ウーマン・イン・ブラック 亡霊の館』(2012)
ちょっと前置きが長くなりましたが、前述の伝統をストレートに受け継いでいるのがイギリスの作家スーザン・ヒルの小説『黒衣の女 ある亡霊の物語』です。
『黒衣の女』は1983年の作品で決して古いものではありません。
ニコ・トスカーニ
なお、『黒衣の女』は登場人物を二人に絞って、本編の出来事を劇中劇として演じるという意表をついた構成で舞台になった後、映画にもなりました。
その中でも『黒衣の女』を原作にした映画『ウーマン・イン・ブラック 亡霊の館』はおおむね原作に忠実なつくりになっています。
また、これは文化的側面の話ですが、主人公のキップス弁護士が泊まる家には「イールマーシュ(ウナギ沼の館)」という名前がついています。
ニコ・トスカーニ
イギリス文学を原作にした『思い出のマーニー』(2014)には「湿っ地屋敷」という名前の家が出てきましたがこれもまた伝統です。
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『ヘルハウス』(1973)
こちらもまたイギリス製ホラー。
原作者のリチャード・マシスンはアメリカ人ですが、正統派のイギリス幽霊屋敷ものです。
伝統的な幽霊屋敷ものとちょっと異なるのが、登場人物たちが怪奇現象に科学のメスを入れようとするところでしょうか。
ニコ・トスカーニ
イギリスにはSPR(Society for Psychical Research)という団体があります。
1882年にケンブリッジ大学の学者たちが創設したこの団体は、心霊現象の科学的解明を志す団体です。
ニコ・トスカーニ
こちらはアメリカ映画ですがホラー映画の古典として名高い『たたり』(1963)も大まかな設定が共通した同系統の幽霊屋敷ものです。
『シャイニング』(1980)
これはオフシーズンで休業中のホテルが舞台ですが、ほぼ全編がこの呪われたホテルで起こるので幽霊屋敷ものの系統の一つと見做してもいいでしょう。
原作はモダンホラーの帝王と名高いスティーヴン・キング。
キングは『ヘルハウス』の原作者であるマシスンから影響を受けていることを公言しており、そうすると当然『シャイニング』にも『ヘルハウス』からの影響があったと考えられます。
『シャイニング』は、技巧の限りを尽くした名作の名に恥じない出来です。
ニコ・トスカーニ
『シャイニング』は興行的にも批評的にも成功をおさめ、今や古典としてホラー映画の特集ではほぼ確実に名前が挙がるほどの存在になっています。
本作ですが原作との差異が非常に多く、改変について原作者のキングは快く思っていなかったようです。
ニコ・トスカーニ
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続いてオカルトホラーの全盛期について記述します。
1970年代のオカルトホラーブーム
1970年代のアメリカではオカルトホラーが一大人気を博しました。
そのきっかけははっきりしていて『ローズマリーの赤ちゃん』(1968)が成功を収めたことを起源とします。
1970年代になると、オカルトホラー百花繚乱の時代が到来します。
先ほど挙げた幽霊屋敷ものホラーの名作『ヘルハウス』もその一本です。
ですが、この時代を代表する一本といえば疑いようもなく『エクソシスト』(1973)でしょう。
悪魔付きの少女をめぐって、神父と悪魔が戦うサスペンス要素も兼ね備えた本作はホラー映画に厳しいアカデミー会員からも評価され、アカデミー賞の作品賞候補になりました。
原作者のウィリアム・ピーター・ブラッディは脚本も担当し、アカデミー賞の最優秀脚色賞を受賞しています。
続いて、同じく悪魔がキーワードとなる『オーメン』(1976)も大ヒット。
『オーメン』はシリーズ化され3本の続編が制作されました。
海の向こう、イタリアでは『サスペリア』(1976)が成功を収めることになります。
ニコ・トスカーニ
1970年代の終わりごろに『ハロウィン』(1978)が成功を収め、1980年代になると『13日の金曜日』(1980)シリーズに代表されるスラッシャー映画の時代が来ます。
こうしてオカルトホラーブームは短い全盛期を終えたのでした。
ニコ・トスカーニ
フランケンシュタインとドラキュラ
ドラキュラとフランケンシュタインは並び立つホラー映画のアイコンです。
まず両者についてありがちな誤解を正しつつ解説していきます。
フランケンシュタイン
フランケンシュタインと言えば、人造人間の代表格として山ほどのホラー映画に登場してきました。
特にボリス・カーロフ(1887-1969)は『フランケンシュタイン』(1931)以降幾度も人造人間を演じており、「フランケンシュタイン」と言われると条件反射的にカーロフの顔が浮かんでくる人が結構いるかと思います。
さて、『フランケンシュタイン』ですが、その元ネタは1818年にイギリスの作家メアリー・シェリー(1797-1851)が発表した同名の小説です。
ニコ・トスカーニ
主人公はヴィクター・フランケンシュタインというスイス人の科学者で、彼が「理想の人間」を目指した結果、怪物が生まれてしまいました。
原作で怪物は終始名無しでただ”creature”(生き物)としか書かれていません。
それが時代が下り、何度も映画化されるうちに「フランケンシュタイン=怪物の名前」と誤解が定着してしまいました。
『フランケンシュタイン』は何度も映画化されていますが、比較的原作に近いものとしてケネス・ブラナー監督・主演の『フランケンシュタイン』(1994)を挙げておきます。
原題は”Mary Shelley’s Frankenstein”と原作者の名前をわざわざ冠した本作は多少の改変はありますが基本、原作に忠実です。
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ドラキュラ
ヴィクトリア朝(1837年から1901年のヴィクトリア女王統治時代)のイギリスは通俗文学が大きく発展した時代です。
ウィリアム・メイクピース・サッカレー(1811-1863)、ジョージ・エリオット(1819-1880)、ジョゼフ・コンラッド(1857-1924)など文学好きなら誰でも知っている純文学をメインフィールドにする文豪はこういった時代の後押しもあって誕生しています。
それと同時に中産階級に軽い娯楽を提供する大衆作家も誕生しました。
ニコ・トスカーニ
1897年に発表された『ドラキュラ』もその文脈で誕生したものです。
作者はブラム・ストーカー(1847-1912)。
『ドラキュラ』は同時代の大衆文学から激しく影響を受けた、いかにもなヴィクトリア朝世紀末文学です。
『ドラキュラ』は主要登場人物の日記として残した記録という体で物語が進みますが、これらは回想ではなくほぼリアルタイムでつづられたものであると注釈されています。
これは明らかにウィルキー・コリンズ(1824-1889)が1860年に発表し、当時ベストセラーになった『白衣の女』の影響です。
ニコ・トスカーニ
東ヨーロッパの吸血鬼伝承を元ネタとする吸血鬼小説の第一号は1819年に発表されたジョン・ウィリアム・ポリドリ(1795-1825)の短編『吸血鬼』です。
その後、ジェームズ・マルコム・ライマーとトーマス・ペケット・パーストの共作で1845年から1847年にかけて発表された『吸血鬼ヴァーニー』、シェリダン・レ・ファニュ(1814-1873)の『カーミラ』などが発表されます。
ニコ・トスカーニ
それらを源流とし吸血鬼のイメージを決定づけることになったのが『ドラキュラ』です。
さて、ここで最初に戻り「ドラキュラ」についての誤解を正しておかなければなりません。
ドラキュラ=吸血鬼というイメージが世間で定着してしまっているようですが、ドラキュラは吸血鬼のことを指す一般名詞ではなくストーカーの『ドラキュラ』に登場するドラキュラ伯爵というキャラクターの名前です。
ニコ・トスカーニ
ドラキュラはワラキア語で「悪魔」または「ドラゴン」の意味です。
ストーカーが『ドラキュラ』を執筆する際に参考にしたウィリアム・ウィルキンソンの『ワラキアとモルダヴィア両公国の歴史』によると「ワラキア人は当時も現在同様、勇気か残虐な行為か狡猾さによって異彩を放つ人物に対して、姓としてこの称号を与えた」との記述があります。
ドラキュラのモデルになったのはワラキア公国(現在のルーマニア)の君主、ヴラド三世(1431-1476)。
通称、ヴラド・ツェペシュです。
「ツェペシュ」とは「串刺し公」の意味で、ヴラド三世がトルコ兵に対して串刺しという血なまぐさい残虐行為を繰り返したことからこの名が付きました。
ヴラド三世はワラキア人の文化に基づき、「ドラキュラ」とも呼ばれていました。
ニコ・トスカーニ
では、なぜ「フランケンシュタイン」と同じような誤解が生じてしまったか、というとやはりこれも映画の影響でしょう。
『ドラキュラ』は『魔人ドラキュラ』(1931)で初めて映画化され、同作でドラキュラ伯爵を演じたルゴシ・ベーラ(1882-1956)は何度も同じ役を演じることになりました。
ちなみに晩年のベーラと史上最低の映画監督として名高いエド・ウッド(1924-1978)の奇妙な友情を描いた『エド・ウッド』(1994)でベーラを演じたマーティン・ランドーがアカデミー助演男優賞を受賞しています。
その後、ドラキュラ役はベーラから『吸血鬼ドラキュラ』(1958)の主演クリストファー・リー(1922-2015)に受け継がれ、リーも何度となくドラキュラを演じました。
内容はどんどん原作からかけ離れたものになっていき、世間ではドラキュラが吸血鬼のことを指す一般名詞として定着していくこととなります。
なお、映画化作品ではフランシス・フォード・コッポラ監督の『ドラキュラ』(1992)が多少のオリジナル要素を含みつつも最も原作に近いです。
本作の原題は”Bram Stoker’s Dracula”とわざわざ原作者の名前を冠しています。
オリジナルに近い姿を映画で観たいのであればコッポラ版をお勧めしておきます。
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