ケネス・ブラナー監督・主演の映画『シェイクスピアの庭』(原題:All Is True)がイギリス本国から2年遅れで日本で公開されました。
同作は1613年、引退した劇作家ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616)が故郷のストラトフォード=アポン=エイヴォンに戻り、没するまでの3年間を虚実ないまぜにして描いた歴史劇です。
歴史劇…とはいえ、シェイクスピアは残した作品の数と反比例するがごとく本人の記録が著しく少ない人物なので殆どの部分はケネス・ブラナー監督と脚本家のベン・エルトンの創作です。
創作ではありますがシェイクスピア作家生活晩年の『冬物語』や『テンペスト』を思わせる穏やかな作風になっており確実にシェイクスピアの息吹を感じさせます。
さすがはシェイクスピアを知り尽くした両者だけあり、作中にはシェイクスピアに親しんだ人であれば思わずニヤリとする描写が多数あり、マニア心をくすぐる作品に仕上がっていました。
それでいてギリギリ一見さんお断りではないラインに踏みとどまっており、「家族を顧みなかった男がその晩年に自身と家族を振り返る」という普遍的な物語にも着地しています。
それでは『シェイクスピアの庭』についてレビューしていきます。
目次
『シェイクスピアの庭』作品情報
作品名 | シェイクスピアの庭 |
公開日 | 2020年3月11日 |
上映時間 | 101分 |
監督 | ケネス・ブラナー |
脚本 | ベン・エルトン |
出演者 | ケネス・ブラナー ジュディ・デンチ イアン・マッケラン リディア・ウィルソン キャスリン・ワイルダー ハドリー・フレイザー ジャック・コルグレイブ・ハースト サム・エリス |
音楽 | パトリック・ドイル |
『シェイクスピアの庭』あらすじ・感想【ネタバレなし】
あらすじ
1613年6月に起きたロンドン「グローブ座」の消失のショックで断筆したウィリアム・シェイクスピアは、20数年ぶりに家族がいる故郷のストラットフォード・アポン・エイボンへと戻ってきます。
妻も娘たちもシェイクスピアの帰還が久々過ぎて喜びよりも戸惑いが先立ちますが、それでも不器用に愛を育みあいます。
そしてシェイクスピアはかつて幼いままこの世を去った息子ハムネットのために独自の庭を造ることを思いつき、実行に移すのでした。
マニア向け本格シェイクスピア映画
ケネス・ブラナーはイギリス人でありながらハリウッド映画的なダイナミックな演出が特徴ですが、『シェイクスピアの庭』ではそういったスタイルが鳴りを潜ませておりフィックスを主体にした落ち着いた画作りに終始していました。
ニコ・トスカーニ
出演者もブラナーだけでなく、ジュディ・デンチ、イアン・マッケランといったシェイクスピア作品を山ほど演じてきた俳優が勢ぞろい。
ニコ・トスカーニ
字幕監修は英文学者、翻訳家で日本シェイクスピア協会会長の河合祥一郎氏が担当するという念の入れようでクレジットの名前を見るとそのこだわり具合がよくわかります。
ニコ・トスカーニ
謎だらけの有名人物シェイクスピア
さて、シェイクスピアと言えば改めて説明するのも馬鹿らしくなるぐらいの超有名人ですが、前述のとおり残した作品数に反して彼自身については殆ど記録が残っていません。
あまりにも残された記録が少ないため、実在を疑う声すらあるほどです。
そのためか、シェイクスピアの戯曲を映画化した作品は山ほどありますが、シェイクスピア自身を主人公にした歴史劇といえば『恋におちたシェイクスピア』(1998)ぐらいしか目ぼしいものがありません。
記録が少ないので歴史劇としては作りにくいのでしょうね。
ニコ・トスカーニ
→天才劇作家シェイクスピア原作おすすめ映画まとめ!誰もが知る名作からマニアな作品まで徹底網羅
シェイクスピア別人説
意外かもしれませんが、シェイクスピアは低学歴です。
ニコ・トスカーニ
1582年(18歳)に8歳年上のアン・ハサウェイ(映画ではジュディ・デンチが演じている)とデキちゃった結婚し、翌年には長女スザンナ(リディア・ウィルソン)が誕生。
1985年には長男ハムネット(サム・エリス)と、次女ジュディス(キャスリン・ワイルダー)の双子を授かります。
ここからしばらく記録が途絶え、1590年代初めから半ばごろにロンドンで劇作家として成功を収めた記録が出てきます。
この劇作家デビューまでの謎の時期を想像力で埋めたのが『恋におちたシェイクスピア』です。
さて、それで見出しの「シェイクスピア他人説」ですが、これは読んで字のごとく「ウィリアム・シェイクスピアという人物は存在せず、別の誰かが名乗ったペンネームだった」という説です。
なぜこんな説が湧き出てきたかと言うと主に2つの根拠があります。
1つは前述のとおりシェイクスピアという人物に関する記録があまりにも少なく、実在性を疑う声があるから。
もう1つはシェイクスピアが低学歴だからです。
このもう一方の理由についてですが、それはシェイクスピアのあまりにも鮮やかすぎる筆致に理由があります。
ニコ・トスカーニ
それにも関わらず、シェイクスピアの作品では王侯貴族特有の言い回しが正確に再現されており、海外の文化が鮮やかに描写されています。
例えば、シェイクスピアの作品には文脈上単数の一人称(I)でなければいけないのに、一人称に複数形(We)が用いられている箇所があります。
これは文法間違いではなく”Royal We“と呼ばれる身分の高い人物のみに許された語法です。
ニコ・トスカーニ
それで出てきたのがシェイクスピア別人説です。
特に有名なのは政治家、哲学者のフランシス・ベーコン(1561-1626)がシェイクスピアだった説で、この説は1848年にアメリカ人学者のJ・C・ハートが書いた論文を発端に起こった歴史の古いものです。
創作だとハロルド作石のコミック『7人のシェイクスピア』および連載中の続編『7人のシェイクスピア NON SANZ DROICT』は大胆にもウィリアム・シェイクスピアは複数人による連名のペンネームだったという解釈をしています。
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しかし、クリストファー・マーロウ、ジョン・ウェブスター、ベン・ジョンソン(映画にもシェイクスピアの友人として登場)といった同時期に活躍したイギリス人劇作家の多くが低い身分の生まれでありながら貴族社会を描いています。
ニコ・トスカーニ
『シェイクスピアの庭』劇中で、庭仕事中のシェイクスピアが「何故あなたはすべてを知っていたのか?」と問われる場面がありますが、これはシェイクスピアの筆致を評する至言で、さすがはシェイクスピアを知り尽くしたケネス・ブラナーだと唸らされました。
すべて真実
『シェイクスピアの庭』の原題は”All Is True“(すべて真実)です。
『すべて真実』はシェイクスピア最晩年の作品『ヘンリー八世』の元々のタイトルです。
ニコ・トスカーニ
映画はシェイクスピアが活躍したグローブ座が火災で全焼するシーンから始まりますが、これは『ヘンリー八世』上演時に実際に起きた出来事です。
現代のロンドンに残された歴史的建造物は多くがレンガ造りですが、これらは1666年のロンドン大火後に建築基準が改訂されてから建てられたものです。
ニコ・トスカーニ
『すべて真実』というタイトルはシェイクスピア最晩年の作品のタイトルであるという象徴的な意味もありますが、それ以上に意味深です。
前述のとおりシェイクスピアは残された記録が少なく、謎だらけの人物です。
映画はそのほとんどを想像力で埋めているので、史実に準じているかと言えば全く違います。
ですが、『シェイクスピアの庭』は多くの人に通じる普遍的な物語として着地しています。
映画は歴史学的には「ほとんどフィクション」ですが、ドラマとしては「すべて真実」と言えます。
ニコ・トスカーニ
息子の亡霊
『シェイクスピアの庭』では長年疎遠だったシェイクスピアと家族の関係が描かれていますが、劇中で通奏低音のように流れているのが11歳で早世した息子ハムネット・シェイクスピア(1585-1596)です。
映画では重要な場面でハムネットの亡霊が現れ、シェイクスピアに語りかけます。
これはシェイクスピアの代表作である『ハムレット』をなぞったのでしょう。
『ハムレット』では序盤に父王の亡霊が王子ハムレットの元に現れ、自身の死の真相について語ります。
俳優でもあったシェイクスピアは『ハムレット』に出演し、この亡霊の役を演じていたと考えられています。
テレビアニメ『Fate/Apocrypha』(2017)のシェイクスピアは俳優をやることへのこだわりを滲ませていました。
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シェイクスピアと植物
『シェイクスピアの庭』は日本公開用につけられたタイトルですが、この邦題は劇中でシェイクスピアが愛息ハムネットの死を悼む庭を造ることに由来します。
シェイクスピアの戯曲は花や植物に対する言及、比喩の対象としての活用が非常に多いです。
劇中に登場する植物の種類は170種類に及び作品を構成する重要な要素となっています。
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ではなぜ、イギリス人は庭いじりが好きなのか?
その理由ですが、それはもともとブリテン島が植生の乏しい土地であることに起因します。
ニコ・トスカーニ
元々、植生の乏しかったイギリスに他の大陸から数々の新しい植物が持ち込まれました。
持ち込まれたものの中にはスパイスやお茶などヨーロッパ人のライフスタイルを変える程の影響を及ぼした物もあります。
イギリス政府はこれらの栽培法を研究し、植民地に移植して安定供給を確保することを狙いました。
ジョン・ジェラード(1545-1611/1612?)、ジョン・パーキンソン(1567-1650)といった植物学者たちが植物学の名著を残すのもこの頃です。
ニコ・トスカーニ
シェイクスピアの時代はフランシス・ドレイク(1541/1543?-1596)が世界一周に成功し、大航海時代の真っただ中でした。
イギリスはエリザベス一世の元、繁栄を極め比較的治安も安定。
エリザベス一世の植物好きも功を奏して、園芸ブームが起きます。
ニコ・トスカーニ
バイセクシャルだった?
シェイクスピアは戯曲と並行して多くのソネット(イタリアを起源とする詩の一形式)を残しており、こちらも文学史に残る傑作として知られています。
例えばソネットの第18番は美しい愛の絶唱で「君」の美しさを称え、「君」への熱烈な愛を歌っています。
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一方、シェイクスピアがアン・ハサウェイと結婚して子供を設けていたというのは数少ないシェイクスピアのはっきり残っている記録の1つです。
つまり、なんとシェイクスピアはバイセクシャルだったんです。
また、ソネット集は「W・H氏」なる人物に献呈されており、詩に登場する「君」とW・H氏は同一人物と考えられています。
このW・H氏が誰なのかについては諸説あるのですが、『シェイクスピアの庭』では3代目サウサンプトン伯ヘンリー・リズリー(1573-1624)のイニシャルH・Wを逆さまにしたものという説が採用されています。
劇中でイアン・マッケランが演じていたヘンリー・リズリーはシェイクスピアのパトロンだった人物で、映画では今でもシェイクスピアが彼に恋心を抱いているように描かれていました。
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バイセクシャルは歴史上を振り返ると意外と例は多く、戦国時代の武将に暖色趣味の持ち主が山ほどいたのは歴史好きの方ならよくご存じの事でしょう。
また、20世紀を代表する指揮者で作曲家、ピアニストだったレナード・バーンスタイン(1918-1990)はバイセクシャルだったことを隠そうともしませんでした。
バーンスタインは妻帯者で3人の子供がいましたが、俳優のファーリー・グレインジャーをはじめ男性とも恋愛遍歴があったことでも知られています。
同性と堂々といちゃついているのを夫人に咎められたバーンスタインは「芸術家ってのはホミンテルン(同性愛者で共産主義者)だ」と居直ったとか。
ニコ・トスカーニ
ちなみにレナード・バーンスタインの伝記映画がブラッドリー・クーパーの監督・主演で企画進行中らしいです。
また、バーンスタインが音楽を担当した『ウエスト・サイド物語』(1961)はシェイクスピアの代表作『ロミオとジュリエット』の翻案作品です。
ニコ・トスカーニ
シェイクスピアの遺言
『シェイクスピアの庭』劇中でシェイクスピアが弁護士を呼んで遺言を改訂するという場面がありました。
これは少し事実と異なり、シェイクスピアが遺言を書いたのは映画の舞台になった1613年ではなく、1616年のことです。
同年1月に書かれた遺言は3月に改訂されていますが、その理由は映画で描かれたのと同じ身内に問題が起きたため。
その際に、次女ジュディスの夫が相続人から外されています。
遺言は映画でも重要なアイテムとして扱われていましたが、遺言はシェイクスピアに関する数少ない確かな資料の1つで、ケネス・ブラナーとベン・エルトンがここから大きく想像力を膨らませたことは明らかです。
シェイクスピアが残した遺言は実際にはこのような内容でした。
- 遺産の大部分を長女スザンナの一家に残すこと。
- 不祥事を起こした次女ジュディスの夫への遺産は無い。
- 劇団仲間のバーベッジ、ヘミングス、コンデルに記念の指輪を買う費用、26シリング8ペンスを残すこと。
- 妻アンには2番目に良いベッドを残すこと。
遺言を改訂した1ヶ月後にシェイクスピアは世を去っています。
ニコ・トスカーニ
『シェイクスピアの庭』まとめ
【予告編】映画『シェイクスピアの庭』
不朽の名作を生み出した文豪、
ウィリアム・シェイクスピア(1564年~1616年)最愛の息子の死、家族との確執…
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— 映画配給会社ハーク公式 (@HARK_COMPANY) March 12, 2020
『シェイクスピアの庭』は一般受けする内容ではありませんが、ミニシアター文化にマッチした良く出来た小品です。
シェイクスピアに興味をお持ちの方、文芸映画好きな方にぜひお勧めしたい1本です。
ニコ・トスカーニ