Netflixで配信中の『Mank/マンク』は映画史上不朽の名作とされている『市民ケーン』(1941)の舞台裏を描いた作品です。
2021年のアカデミー賞でも、最多の10部門にノミネートされています。
『Mank/マンク』は1930年から1940年のハリウッドを舞台にした伝記映画です。
今回は知っていると『Mank/マンク』をより楽しめる、1930年代ハリウッドの時代背景について解説していきたいと思います。
目次
映画『Mank/マンク』と1930年代のハリウッドを解説
不朽の名作『市民ケーン』
時代背景を論じる前に映画『市民ケーン』について解説しておきたいと思います。
『市民ケーン』は映画史を代表する名作と名高い、クラシック映画です。
監督、脚本、製作、主演は当時まだ25歳だったオーソン・ウェルズ(1915-1985『Mank/マンク』ではトム・バークが演じています)。
『Mank/マンク』に主人公として登場し、ゲイリー・オールドマンが演じているハーマン・J・マンキーウィッツ(1897-1953)は共同脚本家として知られる人物です。
『市民ケーン』の主人公であるチャールズ・フォスター・ケーンのモデルになったのは、当時メディア王と呼ばれていたウィリアム・ランドルフ・ハースト(1863-1951)です。
『Mank/マンク』劇中にも登場し、チャールズ・ダンスが演じています。
ハーストは当時のアメリカを代表するメディア・コングロマリット、ハースト・コーポレーションの創業者で、最盛期には28の主な新聞および18の雑誌、ラジオ放送局に加えて映画会社まで保有していました。
『市民ケーン』のケーンはニューヨーク州知事選に出馬して政界進出をもくろみ、結局敗戦しますが、実際のハーストは下院議員を5年務めています。
ケーンは売れない歌手を愛人にして彼女のために劇場まで建造していましたが、ハーストはショーガールだったマリオン・デイヴィス(1897-1961『Mank/マンク』ではアマンダ・サイフリッドが演じています)を愛人にして、彼女のために映画会社(コスモポリタン社)を設立しています。
ニコ・トスカーニ
『市民ケーン』は不朽の名作として今日では評価されており、公開当時もアカデミー賞で作品賞はじめ主要部門を争って脚本賞を受賞しました。
しかし、当然ながらハーストは本作の上映に対してあの手この手の妨害工作を施しており、批評的な評価とは対照的に興行的には失敗しています。
オーソン・ウェルズもマンキーウィッツも、時の権力者で映画界にもがっつり食い込んでいたハーストをモデルにするのは相当勇気のいる行為であることはわかっていたはずです。
ニコ・トスカーニ
『市民ケーン』の脚本を書いたのはクレジットされている通り、マンキーウィッツとウェルズですが、「ハーストをモデルにした脚本を書くことを提案したのはどちらなのか?」については長年論争の種になっています。
『Mank/マンク』では干されることを覚悟でマンキーウィッツが書いて、あくまでもウェルズは共同執筆者だった扱いになっています。
ニコ・トスカーニ
さて、背景ばかり語ってしまいましたが、映画『市民ケーン』そのものについても述べておきたいと思います。
ニコ・トスカーニ
理由はいくつかありますが、主要なところを大雑把にまとめると
- 技術が未成熟
- 規制が厳しいため大胆な表現ができていない
- 当時斬新だった手法が現代では陳腐化している
この辺りでしょうか。
まず「技術が未成熟」は、説明するまでもないでしょう。
1941年当時はカラー映画すら希少な時代だったので、もうここから技術については推して知るべしで、撮影の周辺機材も未成熟なのでカメラワークも乏しくなります。
具体的な例だとステディカムは今では劇映画でもテレビドラマでもドキュメンタリーでも当たり前に使われている機材ですが、ステディカムが開発されたのは1970年代のことです。
ニコ・トスカーニ
1940年代は演出も今ほど洗練されておらず、現代の映画を見慣れている観客からすると中途半端なサイズの画がダラダラ続く、なんか退屈な演出と思ってしまうのは当然の結果だと思います。
続いて規制に関してですが、当時のアメリカにはヘイズ・コードというとても厳しい自主規制条項がありました。
どのぐらい厳しかったかと言うと、『或る夜の出来事』(1934)にクローデット・コルベールがヒッチハイクのためにちょっと生足を見せる描写がありましたが、これがギリギリセーフで世間的に物議を醸したの厳しさです。
露骨な性描写はもちろん、ダイレクトな暴力描写も、ちょっと汚いぐらいの言葉遣いもNGでした。
ニコ・トスカーニ
ヘイズ・コードが正式に廃止されるのは、1968年のことです。
映画を撮るとFワードだらけになるマーティン・スコセッシやクエンティン・タランティーノは、この時代にデビューしていたら才能を発揮できなかったことでしょう。
続いて手法についてですが、『市民ケーン』は先駆者でした。
『市民ケーン』の技法について語るうえで重要なのが、「長回し」と「パンフォーカス」です。
長回し(ステージング)はまんま、カットを切らずにカメラを長い時間回し続けることです。
パンフォーカスはディープフォーカスとも言い、画面の手前側と奥側の両方、つまり全体にピントが合わせてはっきり見えるようにする技法です。
手前側だけにフォーカスを合わせて奥側をボカすのを、シャローフォーカスと言います。
オーソン・ウェルズは長回しパンフォーカスの画面の中で人物を動かし、画面全体の俳優が何をしてどんな表情をしているか見せる手法を取りました。
このことによって、画面全体に意味を持たせました。
パンフォーカスは、世紀の大巨匠である黒澤明(1910-1998)も好んで使った手法です。
ニコ・トスカーニ
同じくパンフォーカスを好んで使った黒澤明が全盛期を迎えるのは『市民ケーン』の少し後ですが、『七人の侍』(1954)の方が明らかに演出が洗練されています。
ニコ・トスカーニ
パンフォーカスで長回しの手法に辿り着いたのは、ウェルズが舞台演出家出身だったことが関係していると思います。
長回しをステージングと呼ぶのは、映画のシーンがステージ(舞台)上の芝居のように扱われることから来ています。
サム・メンデスはいかにも舞台演出家出身らしい長回しを好んで使う人ですが、同じ長回しでもメンデスの方が遥かに洗練されています。
『1917 命をかけた伝令』(2019)は現時点における彼の集大成ですね。
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ニコ・トスカーニ
とはいえ、これらの話は『市民ケーン』を今見ると陳腐に思えてくる理由であると同時に、同作が映画史において果たした重要な役割の話でもあります。
『市民ケーン』は、極端なローアングル撮影、広角レンズの使用、時系列を行き来する構成など今では当たり前になった手法を先取りした作品でした。
また、久しぶりに見返してみて気付いたことですが、ケーンの生涯を追いかけ、語り手としての役割を果たす編集者のトンプスン(ウィリアム・アランド)は終始正面からのカットがありません。
トンプソンは語り手的な存在であり、観客にとっては映画の世界へのインターフェイスみたいな存在です。
顔を写さないことで、観客がトンプスンのPOV(主観映像)で鑑賞しているような効果があります。
ニコ・トスカーニ
本当の意味で映画が成熟して今日の形に近づいてくるのは1960年代の終わりごろだと思うのですが、この話は『市民ケーン』とも『Mank/マンク』とも全く関係のない話なので、いつか稿を改めたいと思います。
映画『市民ケーン』作品情報 映画『市民ケーン』は、俳優でもあるオーソン・ウェルズが1941年に発表した処女作。……
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1930年代のハリウッド
続いて『Mank/マンク』の時代背景について解説していきます。
『Mank/マンク』は「現在」の1940年を起点に、多くの回想を挟み、主に1930年代のハリウッドを舞台にしています。
タイトルはハーマン・J・マンキーウィッツの愛称「マンク」から来ています。
1930年代は、産業としての映画がアメリカで成熟期を迎えた時期です。
中心地になったのは、カリフォルニア州ロサンゼルスのハリウッド地区。
アメリカ映画界の産業構造を説明するために、ちょっと時代を遡ります。
誰が映画を発明したかについては議論が分かれるところですが、一般的にはオーギュスト・リュミエール(1862-1954)とルイ・リュミエール(1864-1948)のリュミエール兄弟ということで落ち着いています。
動画の原型を作った人となると他にも名前が挙がってきますが、リュミエール兄弟が画期的だったのは「映画を見世物として興行にした」ことにあります。
時同じくして海を隔てたアメリカで映画を発展させたのが、皆様ご存じ発明王のトーマス・エジソン(1847-1931)です。
エジソンは覗き箱型のキネトスコープ(初期の映画鑑賞装置)をウィリアム・K・L・ディクソン(1860-1935)と発明し、ブラックマリアと名付けられた撮影スタジオを建ててキネトスコープで流すためのフィルム制作を支援しようとします。
ブラックマリアで作成されたのは、黒い背景で人物が動くと言った動画でした。
キネトスコープの映像(1891)
映っているのはウィリアム・K・L・ディクソンです。
しかし、海の向こうでリュミエール兄弟が多人数向けの上映会を開催して成功したことを知ると、エジソンはリュミエール兄弟のように日常の風景や景観を映し出したものへとシフトチェンジすることを決定します。
こうして初期の上映ルームが作られ、観客を入れて映画を見せるという興行としての映画の基礎が作られます。
世界初の映画ルイ・リュミエール監督『工場の出口』(1895)
19世紀末から20世紀初頭にかけて、映画は物凄い勢いで進化していきます。
初期の映画は『工場の出口』のようなただカメラを回して実景を撮っただけの記録映像でしたが、ほどなくして『月世界旅行』(1902)『大列車強盗』(1903)のような筋のあるフィクションが作られるようになります。
初期のころ、映像を撮る、フィルムを開発するなどの技術者と映画監督は同一の存在でしたが、演劇界などから人材が映画制作に参入し表現や内容も進化していきます。
元々技術者だったエドウィン・S・ポーター(1870-1941)は、技術者と映像制作者を区分けした映画監督の先駆け的な存在でした。
『國民の創生』(1915)などで知られるD・W・グリフィス(1875-1948)は舞台俳優から映画業界に参入し、多くの映像テクニックを開発しました。
1920年代になると音声付きの映画「トーキー」が開発され、1932年までに音楽、声、効果音がフィルム上の別々の録音トラックに収録できるようになります。
重い撮影機材を載せて、移動撮影できる「ドリー」も開発されます。
録音技術の安定で本格的なミュージカル映画が製作できるようになり、『四十二番街』(1933)、『トップ・ハット』(1935)が公開されました。
『魔人ドラキュラ』(1931)、『フランケンシュタイン』(1931)など初期ホラー映画の代表作が作られ、最新鋭の特撮技術を活用した『キング・コング』(1933)、ギャング映画のジャンルを確立させた『犯罪王リコ』(1930)、『民衆の敵』(1931)、『暗黒街の顔役』(1932)などが制作されます。
ニコ・トスカーニ
戦場にならなかったアメリカは映像を制作する体力も、制作する技術もたっぷり保有しており映画産業はアメリカの一人勝ち状態になります。
エジソンは映画がビジネスになることを確信し、映画業界を自身の独占状態にしようと画策します。
エジソンは東海岸にスタジオを構えていたため、支配から逃れるためニッケルオデオンと呼ばれた低料金映画を制作していた興行主たちは1908年ごろから西海岸のハリウッドへと移転しはじめました。
こうして、ハリウッドが映画の都となる基礎が作られます。
1930年代は制作、配給、公開といったビジネスの形が整い、プロの映画監督、脚本家、俳優と言った中身に関わる人たちの地位が確立された時代です。
現代と違うのは、スタジオ・システム(撮影所システム)と呼ばれる形が制作体制の主流だったことでした。
1917年、フィラデルフィアの劇場チェーンが、全米の劇場系会社を多数束ねて、共同で制作会社を設立しました。
ファースト・ナショナル興業社連盟というこの会社は制作、配給、上映を丸ごと管理下に置くという経営方針を打ち出します。
これに続いてパラマウント、メトロ・ゴールウィン・メイヤー(MGM)が設立され、さらにユニバーサルとフォックスが設立されました。
その後の淘汰と再編を経て1930年代半ばには5つの制作会社(MGM、パラマウント、ワーナー・ブラザーズ、フォックス、RKO)が「ビッグ5」として映画業界の制作から公開までのほぼすべてを牛耳っていました。
ビッグ5のような少数の映画会社が寡占的に映画産業を独占していた形態を、スタジオ・システム(制作会社が撮影スタジオも所持していたことに由来)と言います。
ニコ・トスカーニ
エージェンシーやマネージャーと提携して仕事を探してもらうことはあっても、日本のように芸能事務所に所属して事務所に売り出してもらう形式とは別物。
監督、脚本家、俳優には自分で映像制作会社を持っている場合もありますが、やはりこれも日本の芸能事務所システムとはまったく別物です。
有名なところだと、スティーヴン・スピルバーグが共同設立者になったドリームワークス・ピクチャーズ、ジョージ・ルーカスが設立したルーカスフィルム、クリストファー・ノーランが設立したシンコピー・フィルムズ、ブラッド・ピットらが設立したプランBエンターテインメントなどがあります。
『Mank/マンク』でハーマン・マンキーウィッツはやたらと撮影所に出入りしていますが、これは当時メジャー映画製作のスタイルがスタジオ・システムに基づいていたからです。
現代の感覚では少々違和感のする描写ですが、1908年ごろから制作会社は俳優と長期契約を結ぶようになっており、1930-1940年代当時、俳優もスタッフも映画会社に所属して活動していました。
実際、マンキーウィッツはパラマウントと契約してキャリアをスタートしています。
1933年にはMGMに移籍し、『オズの魔法使』(1939)の脚本に関わっていますが、制作過程のいざこざでクレジットされていません。
ニコ・トスカーニ
ルイス・B・メイヤー(1884-1957 演・アーリス・ハワード)、アーヴィング・タルバーグ(1899-1936 演・フェルディナンド・キングズレー)、デヴィッド・O・セルズニック(1902-1965 演・トビー・レオナルド・ムーア)が劇中に登場しますが、彼らは当時MGMの中核を担っていたプロデューサーたちです。
撮影所とはまた違う話でしたが、映画の舞台当時は設立されたばかりだった全米脚本家組合の話も出てきましたね。
当時振興の労働組合だった全米脚本家組合は、その後数度にわたってストライキを起こしています。
しかし、1948年にこのスタジオ・システムが、独占禁止法に抵触するとの判決が下ります。
1950年代になると台頭してきたテレビとの競争で映画会社は俳優、スタッフを抱えておく体力を失い、スタジオ・システムは完全に崩壊します。
ニコ・トスカーニ
『Mank/マンク』のデヴィッド・フィンチャー監督もネット配信のNetflixと4年間の独占契約を結んでいますし、アメリカ映像業界は新たな転換期に来ているのかもしれません。
1930年代のアメリカ
『Mank/マンク』では、マンキーウィッツがウェルズに依頼された脚本を書くために、砂漠に囲まれた観光牧場にアシスタントたちとカンヅメになる1940年の「現在」と、1930年代のマンキーウィッツが売れっ子脚本家として活躍しながら『市民ケーン』の執筆動機を育んでいく「過去」が交互に描かれています。
映画を見るうえで知らないとポカンとしてしまうかもしれないのが、時代背景です。
1930年代アメリカの時代背景として最も重要なことが、1929年に始まった世界大恐慌です。
1929年10月24日。
ニューヨーク証券取引所で株価暴落が発生しました。
「暗黒の木曜日」と呼ばれるこの事件をきっかけに始まったのが、世界大恐慌です。
この株価暴落で一瞬で財産を失った幾人もの人が、ニューヨークの高層ビルの窓から飛び降り自殺をしたという逸話が残っています。
ニコ・トスカーニ
1920年代の第一次世界大戦後の復興による特需と自動車、ガス、電話、電気などの新産業による好景気が行き過ぎた結果がバブル崩壊の原因とされています。
1933年3月に景気はいったん底を打ちましたが、1937年5月に再び景気が後退。
NBER(全米経済研究所)によるとアメリカが平常に戻ったのは1940年から1941年ごろではないかとされています。
以上からお分かりの通り、1930年代のアメリカは大不況の真っただ中でした。
ニコ・トスカーニ
その大不況の最中にハリウッドは劇的な進化を遂げているわけですが、定着したジャンルから当時の大衆心理が伺えます。
前述のとおり1930年代はコメディやミュージカルのような明るい内容のものもウケましたが、対称的な内容のギャング映画とホラー映画がジャンルとして定着した時代でもあります。
これらのジャンルが観客に受け入れられたのは、大衆の中に将来への不安や危機感が蔓延していたことと無関係では無いでしょう。
当人はほとんど出てきませんが、『Mank/マンク』ではマンキーウィッツの回想でカリフォルニア州知事選が描かれています。
まず、知らないとポカンなことですが、劇中でセリフに出てきた「ボルシェヴィキ」という言葉について述べておきます。
ボリシェヴィキとはロシア社会民主労働党が分裂して形成された、ウラジーミル・レーニンが率いた左派の一派、思い切り要約すると共産主義者です。
『Mank/マンク』ではアップトン・シンクレア(1878-1968 演・ビル・ナイ)とフランク・メリアム(1865-1955)が州知事を争ってメリアムが圧勝したことが描かれていますが、シンクレアは社会主義作家でした。
ニコ・トスカーニ
シンクレアは「カリフォルニアで貧困を終わらせる(End Poverty in California=EPIC)」のスローガンで民主党から出馬していますが、ウィリアム・ハーストらの共和党寄りメディアは、シンクレアの政策を批判。
ルイス・メイヤーらと結託してネガティブキャンペーンのヤラセニュース映画を作り、結果シンクレアは敗退しています。
『Mank/マンク』では、この事件がマンキーウィッツの『市民ケーン』を執筆するきっかけの一つになったように描かれています。
アメリカはバリバリの資本主義国家ですが、1919年に誕生したアメリカ共産党は世界大恐慌による社会改革運動の台頭で勢力を拡大し、1930年代には最盛期を迎えていました。
しかし、バリバリ共産主義者だったシンクレアが大敗したことからもわかるとおりに、アメリカ共産党が巨大勢力となることはありませんでした。
1940年代から1950年代の赤狩りによって党のイメージは著しく悪化、党員数が激減しています。
赤狩りについて映画で知りたい方は、ジョセフ・マッカーシー議員(1908-1957)の赤狩りを非難したジャーナリスト、エドワード・R・マロー(1908-1965)を主人公にした『グッドナイト&グッドラック』(2005)、赤狩りで投獄された脚本家ダルトン・トランボ(1905-1976)を主人公にした『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』(2015)をどうぞ。
なお、シンクレアは作家として現在にも名前を残しています。
ニコ・トスカーニ
『Mank/マンク』の登場人物たちについて
『Mank/マンク』は伝記映画ですので、実在の人物が大量に登場しています。
映画を見ていれば登場人物がどんな立場の人物なのかはわかりますが、事前に知っておくとより楽しめるので、記事で割愛した目ぼしいところを解説して締めくくりにしたいと思います。
ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ(1909-1993)
『Mank/マンク』の主人公、ハーマン・J・マンキーウィッツの弟。
映画ではトム・ペルフリーが演じています。
『Mank/マンク』は1930年から1940年ごろまでは描いているので、時系列最初のころは、彼はまだ20代前半の駆け出しだったことになります。
終始いち脚本家だった兄ハーマンと違い、ジョーゼフは後に映画監督としても名声を確立。
『イヴの総て』(1950)で、アカデミー賞の最優秀監督賞と脚本賞をダブル受賞しています。
遺作となった『探偵スルース』(1972)でも、アカデミー賞の監督賞候補になっています。
ニコ・トスカーニ
同一の原作でケネス・ブラナー監督がリメイクしていますが、ハロルド・ピンターが大幅な脚色を施しておりこちらは完全に別物です。
ジョン・ハウスマン(1902-1988)
俳優、プロデューサー。
映画ではサム・トラウトンが演じています。
演劇界で俳優、プロデューサーとして活躍しオーソン・ウェルズと共にマーキュリー劇団を設立しています。
映画界でも活躍し、プロデューサーを務めた『悪人と美女』(1952)、『炎の人ゴッホ』(1956)はアカデミー賞の主要部門を争っています。
映画俳優として『ペーパーチェイス』(1973)では、アカデミー賞の最優秀助演男優賞を受賞しています。
ベン・ヘクト(1894-1964)
脚本家、劇作家、小説家、映画プロデューサー。
映画ではジェフ・ハームスが演じています。
ハーマン・J・マンキーウィッツとは友人で、彼の誘いで劇作家から映画界に参入しています。
脚本家として6度アカデミー賞候補になり、『暗黒街』(1927)と『生きているモレア』(1935)で原案賞(1957年に廃止)を受賞しています。
ニコ・トスカーニ
映画『Mank/マンク』と1930年代のハリウッドを解説:まとめ
“ハリウッド黄金時代”を聞くと、あなたは何を想像しますか?
『#市民ケーン』の脚本家ハーマン・J・マンキウィッツ、通称・マンク。ウィットと風刺に富んだ彼の視点から1930年代のハリウッドを描く。
ゲイリー・オールドマン、アマンダ・セイフライド、チャールズ・ダンス『Mank/#マンク』配信開始🎬 pic.twitter.com/wFG2pD6lq1
— Netflix Japan | ネットフリックス (@NetflixJP) December 4, 2020
以上、ここまで映画『Mank/マンク』とその時代背景について解説してきました。
2021年4月26日(月)のアカデミー賞授賞式で『Mank/マンク』が何部門を受賞するのか、作品賞を受賞して『市民ケーン』の雪辱を80年ぶりに果たすのか、楽しみですね。