『アルテ』をより楽しむためのイタリア・ルネサンスの文化、フィレンツェ、ヴェネツィアの歴史を徹底解説!

『アルテ』をより楽しむためのイタリア・ルネサンスの文化、フィレンツェ、ヴェネツィアの歴史を解説!

出典:FODプレミアム

2020年は新型コロナウィルスの影響で外出自粛が続いています。

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

この期間に今まで見ていなかった映画や漫画、小説などをようやく見た、読んだという方も多いのではないかと思いますが、筆者は今まで存在は知っていたものの読んだことの無かった漫画「アルテ」を読みました。

そこから同作が2020年4月からテレビアニメ化されている事を知り、慌てて追いかけました。

アルテ』は非常に面白いアニメですが、ルネサンス期のイタリアという特殊な文化背景を舞台にしているのでより楽しめるように今回のコラム記事を書くことにしました。

『アルテ』概要


まず、『アルテ』という作品についてざっと説明します。

大久保圭による原作は2013年より月刊誌で連載されている青年漫画でルネサンス期のイタリアを舞台にした歴史漫画です。

歴史漫画と言っても史実を描いているわけでなく、画家を目指す少女”アルテ”が男女差別の激しい時代に様々な苦難に遭いながら自らの道を切り開いていくというまるで朝ドラのような内容の「歴史ものフィクション」と言った方が適切でしょうか。

『アルテ』はあくまでもフィクションであり、朝ドラのように分かりやすい展開のアニメです。

ルネサンス期のイタリアという特殊な文化背景を知らなくても十分に楽しめますが、知らずに観るより知ってから観る方がより楽しめるはず。

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

筆者は美術は完全な門外漢ですし、歴史の専門家でもありませんが、美術も歴史も好きです。

ヨーロッパの数か国に旅したことがありますが、立ち寄った先では必ず目ぼしい美術館と博物館に入ります。

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

私のような趣味の人間にとっては『アルテ』は実にたまらない内容です。

ということで、『アルテ』を見るうえで知っているとより良いイタリアルネサンスの知識を解説していきます。

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

できるだけアニメ内の描写を取り上げながらお話ししたいと思います。

『アルテ』にまつわる文化知識:そもそもルネサンスとは?

ルネサンスの意味

“ルネサンス”という言葉から皆様はまず何を思い浮かべるでしょうか?

恐らく多くの人はレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)やミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564)といった美術の巨匠が活躍した時代という漠然としたイメージをお持ちなのではないでしょうか?

レオナルド・ダ・ヴィンチ

出典:Wikipedia

そのとおりでルネサンスとはイタリアを発端に西ヨーロッパの各地で歴史に残る芸術・学問の天才たちが活躍した時代です。

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

アルテ』の主人公の名前である「アルテ」は”arte”=アートのことで実に象徴的な名づけと言えるでしょう。

いつからいつまでをはっきり「ルネサンス」と区切るのは不可能ですが、大まかに14世紀から16世紀までがルネサンスの時代として一応、括ることができます。

では、「14世紀から16世紀のヨーロッパが=ルネサンスなのか?」というとこれはあまりにも乱暴すぎで、ルネサンスという時代の根幹は「このくらいの時期に起きた大きな意識の変化」にあります。

では、まず「ルネサンス」という言葉の意味から解いてみましょう。

ルネサンス(仏: Renaissance)とは「再生」「復活」という意味です。

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

何が、「再生」「復活」なのか?

古典古代(ギリシア、ローマ)の文化の「再生」「復活」です。

なぜ、古代ギリシャ、ローマの文化が「再生」「復活」したのか?

これは当時のヨーロッパにおける巨大勢力だったローマ・カトリック教会の権威が落ちたことと関係あります。

ルネサンスの礎を築いた2人

直接ルネサンス文化の担い手になったわけでありませんが、カトリック教会の権威が落ちたきっかけ≒ルネサンスが勃興するうえで礎を築いた人物が2人います。

1人目はアッシジのフランチェスコ(1182-1226)です。

アッシジのフランチェスコ

出典:Wikipedia

権力が集中すると腐敗が始まるのはいつの時代、どの国も一緒で中世のカトリック教会はまさにその状態でした。

加えて当時の人々は大半が文盲でした。

アルテ』に出てくるお針子のダーチャがアルテから読み書きを教わる場面がありますが、豊かな家庭に育ったならともかく彼女のような農村の出身者がある程度の年齢になっても読み書きできないのは普通のことでした。

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聖書の言葉はラテン語で書かれているので教養のある人しか読めません。
ラテン語聖書

出典:Wikipedia

なので聖職者が聖書に書かれていること=キリスト教の教えに反することをしたとしても、庶民は文字が読めないのでわかりません。

解らないので腐敗した聖職者が誤った行いをしたところで批判のしようがありません。

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腐敗した教会が権威を保ち続けるには都合が良かったんですね。

今では聖フランチェスコとしてイタリアの守護聖人に祭り上げられている人物ですが、フランチェスコの教えは当時としては異端でした。

フランチェスコはキリスト教の原点である「清貧」を貫き、庶民たちに教えを「わかりやすく説く」ことで絶大な人気を獲得しました。

彼を中心にできた「小さな兄弟団」は大幅に拡大し「フランシスコ会」という大修道会に発展することになります。

活動は世界中に拡大し、16世紀末にはフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタが来日しています。

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

鎌倉仏教の浄土系諸宗もわかりやすい思想で庶民の共感を得ています。その過程はよく似ていますね。

フランチェスコの教えは特に、当時の新興形勢力だった商人と手工業者にウケました。

彼の教えは柔軟で「清貧」を解きながら決して「金儲け」は否定しなかったからです。

儲けは修道会に寄進してくれれば福祉の充実に繋がるし、神への奉仕につながると考えたからです。

『アルテ』の舞台の一つであるフィレンツェは金融業で栄えた街で、同じくアニメの舞台であるヴェネツィアは交易で栄えた街です。

文化を発展させるには飲み食いできるだけの収入では不十分で、余剰のお金が無ければなりません。

フランチェスコの柔軟な教えがその基礎になっていると考えるのは決して大それた考えではないでしょう。

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金融業が卑しい仕事と考えられていた旧教の教えとは大違いですね。

もう1人が神聖ローマ帝国皇帝、フリードリヒ二世(イタリア名フェデリーコ二世、1194-1250 )です。

フリードリヒ二世

出典:Wikipedia

宗教家だった聖フランチェスコと違い、あくまで俗人だったフリードリヒ二世はリアリストでした。

中世後期という時代は、聖地エルサレムをめぐってキリスト教国が十字軍を送り、キリスト教徒とイスラム教徒がドンパチしていた時代でしたがマルチリンガルだったフリードリヒ二世はアラビア語も堪能で、イスラム圏の文化にも興味を持っていました。

当然、十字軍については否定的で第6回十字軍の際は、派兵を要請されて渋々軍をすすめたものの、行軍中に疫病が発生したことを口実に引き返し、「仮病」と判断されてカトリック教会から破門されています。

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それで終わりではありませんでした。

エルサレムを統治するアイユーブ朝のスルターン・アル=カーミル(1180-1238)はそれまでの侵略者とは異なるフリードリヒに興味を持っていました。

スルタン・アル=カミール

出典:Wikipedia

2人は書簡を交わしあい、条約を締結。

10年間の期限付きでキリスト教徒にエルサレムが返還され、両勢力は宗教的寛容を約束しあいました。

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

石頭だらけだった中世とは思えない柔軟さです。

フリードリヒは外交面でもリアリストでしたが、政策面でもリアリストでした。

古代ローマをお手本に官僚制度を整備しました。

これは宗教を中心にした法とは完全に異なるものです。

国外との通商をスムーズにするために貨幣の質を向上させました。

学問、芸術の振興にも積極的で領内にヨーロッパ初の設立型大学を設立しました。

表向きは国外の大学に若者を送り出すのは忍びないというものでしたが、実質はキリスト教の法から外れた法学を教えるためだったと言われています。

その大学はフェデリコ2世・ナポリ大学として今も存続しています。

ナポリ大学

出典:Wikipedia

フリードリヒ二世の思想で重要な部分はいくつもありますが、その一つは政教分離を徹底したことでしょう。

後述する通り、アニメ『アルテ』の舞台になっているフィレンツェとヴェネツィアはイタリア、ルネサンスにおいて非常に重要な地になりましたが、双方ともに政教分離の方針が徹底されていました。

カトリックの権威まで揺るがせたルネサンス

ルネサンスはニコラウス・コペルニクス(1473-1543)やガリレオ・ガリレイ(1564-1642)のような科学者の大物を生んだ時代でもあります。

科学の根本にあるのは「なぜ?」という疑いです。

ワクチンや薬が開発から販売まで異常に時間がかかるのは「その薬が効く証拠」を「本当にその薬は薬効があるのか?」という疑いを以て綿密に精査するからです。

これは「信じる者は救われる」という宗教の教えとまるで正反対の考えです。

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ダ・ヴィンチは科学にも精通していた万能の人ですが、きっと彼の頭には「なぜ?」という疑問が常に浮かんでいたのでしょう。

良い絵画や彫刻を作るために人体の構造を知りたいから解剖学を学び、光の具合を知りたいから自然科学を学ぶ、そういった探求心は「なぜ?」という疑いからしか生まれません。

この「疑う」という姿勢はカトリック教会の権威をも揺るがしました。

カトリック教会の権威を裏付けるものとして「コンスタンティヌスの寄進状」という文書がありました。

コンスタンティヌスの寄進状

出典:Wikipedia

これは「ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(270-337)が教皇領を寄進した証拠の文書」とされ、教権の重要な根拠の一つでした。

ところが15世紀の人文主義者ロレンツォ・ヴァッラ(1407-1457)がこの文章を研究し、古代ローマ時代の文献と異なる用法で書かれていることに気付きます。

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

コンスタンティヌスの寄進状偽作説が確定するのは18世紀のことですが、この事件でカトリック教会の権威が揺らいだのは間違いありません。

カトリック教会の権威が揺らいだ結果、目を向けられたのが古代ローマでした。

古代ローマの文化はローマ神話やミトラ教、影響元になったギリシャのギリシャ神話などキリスト教側から見たら「邪教」をもとに立脚した文化です。

ギリシャ神話

出典:Wikipedia

これがカトリック教会の権威が揺らいだことで見直されるようになりました。

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

思い切り乱暴なことを言いますが、中世の西洋画ははっきり言って下手くそです。

下手という言い方が不適切なら工夫が無いと言ってもいいと思います。

中世には主にロマネスクとゴシックの二つの様式がありますが、遠近法も陰影もまるでゼロで、かといって江戸時代の浮世絵のような色彩美があるわけでもありません。

ロマネスク

出典:Wikipedia

写実的には程遠く、かといってそれをカバーする魅力があるわけでもありません。

対して古代ローマ、ギリシャの美術は極めて写実的です。

完全な状態で残っているものはほとんどありませんが、古典時代の彫刻は血の通った人間のようなリアリティがあります。

ミロのヴィーナス

出典:Wikipedia

また、古典時代の絵画はほとんど残っていませんが、15世紀当時はトライアヌス浴場の地下に埋もれていた皇帝ネロの宮殿壁画はまだある程度原型を留めていたと考えられています。

古典時代の絵画にはすでに遠近法が活用されていたことをルネサンスの画家は知ることができたはずです。

18世紀になってポンペイ遺跡が発見され、火山灰の下に埋もれて保存されたローマ美術の凄さを人々は改めて知ることになります。

ようやくまとまりますが、ルネサンスとは人の意識が変わった結果、芸術が発展した時代でした。

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こんな内容でルネサンスを要約したとはとても言えませんが、このくらいにしておきます。

ルネサンスに関しては書籍もドキュメンタリーも山ほど出ていますので、とりあえず塩野七生先生の著作からスタートして色々読んでみるといいと思います。

『アルテ』にまつわる:フィレンツェとヴェネツィア

フィレンツェ

ルネサンス期のイタリアは現代のような統一国家ではなく、幾つかの小国がせめぎ合う争いの時代でした。

クラシック映画『第三の男』(1949)でオーソン・ウェルズが

「ボルジア家支配のイタリアでの30年間は戦争、テロ、殺人、流血に満ちていたが、ルネサンスを生んだ。スイス500年の平和と民主主義はいったい何をもたらした?鳩時計だよ」

という名言を残しましたが(ウェルズのアドリブだったとか)、ルネサンスという激動の時代を的確に表現した名台詞だと思います。

『第三の男』

出典:IMDB

群雄割拠するイタリア半島でも特に大きかったのがミラノ公国、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、ローマ教皇領、ナポリ王国の五大勢力。

これらの中で最初に発展したのがアルテの生まれ故郷で、作品の主な舞台の一つであるフィレンツェです。

フィレンツェ

出典:Wikipedia

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アルテ』が西暦何年の出来事か原作でも明記されていませんが、「ここ2,3年でラファエロとダ・ヴィンチが亡くなった」とのこと(原作第38話)ダ・ヴィンチが1519年没、ラファエロが1520年没なので原作38話の時点で1522年であると考えられます。

ですので、当時ナポリ王国はスペイン領だったはずです。

アニメ化されていないパートですが、原作にカスティーリャ王国の王女が出てくるのはそういった当時の西ヨーロッパの勢力争いの状態を表しているものと思われます。

さて、ちょっと脱線しましたがフィレンツェは非常に歴史の古い街で起源はルネサンス時代ではなく古代ローマまでさかのぼります。

街の誕生は紀元前59年。あのユリウス・カエサル(BC100-BC44)が入植者への土地貸与を法整備化するなどして都市化しました。

ユリウス・カエサル

出典:Wikipedia

イタリア半島の中央より北寄りの内陸部に位置し、盆地なので寒暖差が激しく冬は冷え込みます。

隙間風の吹き込む小屋でアルテが寒さに震えている場面がありましたが、当時のヨーロッパは小氷期だったはずなので今とは比べ物にならないくらい寒かったことでしょう。

フィレンツェ共和国は金融業と毛織物工業で発展した都市国家です。

キリスト教徒は十分の一税と言って収入の十分の一を税金として徴収されていたのでカトリック教会は嫌でも潤っていました。

それを運用していたのが金融業者です。

なので、金融業界も潤っていました。

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

また毛織物業が盛んだったので末端のお針子だったダーチャも産業に貢献していたということになりますね。

経済的に豊かであるということは、職人や芸術家などの生活に不必要な仕事に人的資源を回すことができる、ということです。

この図式はギルガメッシュ叙事詩という古代文学の傑作を生み出したメソポタミアや、すでに万単位の軍がぶつかり合う群雄割拠の様相を呈していた春秋戦国時代の中国に通じるものがあります。

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

後者の方はアニメも継続中の『キングダム』の舞台ですね。

ルネサンス時代においてこの街を牛耳っていたのがメディチ家です。

メディチ家は表面的には一市民にすぎませんでしたが、実質的には専制政治を執る独裁者のような存在でした。

ですので、メディチ家とルネサンス期のフィレンツェは切っても切り離せない関係にあります。

『アルテ』の時代の更に一世紀前、メディチ家は銀行業で成功を収め、すでに大きな富を築いていました。

家業を受け継いだコジモ・デ・メディチ(1389-1464)は政治的に表に出ることを避け、選挙制度を操作して政府をメディチ派で固めることで実権を握ります。

コジモ・ディ・メディチ

出典:Wikipedia

フリードリヒ二世がそうだったようにコジモもリアリストでした。

コジモは国政に携わる人材を階級に拘らず、能力主義の登用策をとりました。

税制の平等化を図り、恐らくはヨーロッパで初であろう累進課税制度を導入します。

納税している皆様ならご存じの通り、累進課税は高額所得者ほど税金を多く払わなければいけませんが、高額所得者であるコジモ自身が言い出しっぺなのですから反論などできようはずもありません。

また、争いの時代だったルネサンス時代にありながらイタリア半島内で対抗し合う各勢力と講和を結ぶことに成功します。

これは後述するヴェネツィアにも言えることですが、メディチ家は政教分離を徹底しました。

当時最強のイスラム圏と言えばトルコのオスマン帝国でしたが、コジモは当時のスルタン(皇帝)とも良好な関係を築いていました。

コジモは芸術家にとっても良きパトロンでフィリッポ・ブルネレスキ(1377-1446)、ドナテッロ(1386-1466)らを庇護しました。

フィリッポ・ブルネレスキ

出典:Wikipedia

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ここに芸術都市フィレンツェの基礎が築かれます。

メディチ家の繁栄は続き、コジモの孫であるロレンツォ・デ・メディチ(1449-1492)の代で最盛期と没落の両方を迎えます。

ロレンツォは優れた外交手腕の持ち主で政治家としては超一流でした。

惜しむらくは商業の才能に欠けていたことで、メディチ銀行は大きな赤字を計上していました。

ロレンツォの息子、ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(1472-1503)の代にメディチ銀行は破綻。

外交政策にも失敗しメディチ家は、フィレンツェ共和国を追放されることになります。

ローマ教皇に即位した次男のジョヴァンニ・デ・メディチ(教皇としての名前はレオ十世 1475-1521)が1512年にスペイン軍と共にフィレンツェに侵攻し、メディチ家の復権を果たしますが、ジョヴァンニはフィレンツェには留まらずローマから間接統治を行うようになります。

ジョヴァンニ・デ・メディチ

出典:Wikipedia

フィレンツェは小高い丘から全容が見渡せるような狭い街です。
そんな場所からダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)、ボッティチェリ(1445-1510)と言った100年に1人レベルの天才が複数人誕生しています。

アルテが生まれたのはそんなとんでもない時代のとんでもない場所でした。

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

画家として生きていくにはこれ以上ない最上の環境だったと言っていいでしょう。

ヴェネツィア

アルテ』ではヴェネツィアに到着したアルテがヴェネツィアに大勢の外国人がいることに驚いていましたが、ヴェネツィア共和国は交易によって栄えた都市国家で実際に当時は国際都市でした。

ヴェネツィア共和国の交易相手にはヨーロッパのキリスト教圏だけでなく、アラブのイスラム圏も含まれます。

16世紀前半当時。

最後の正当な十字軍となった第九回十字軍(1271-1272)こそ昔の話になっていましたが、火はまだ燻っており、ローマ教皇ピウス2世(1405-1464)は熱心に十字軍を提唱し1464年には教皇自ら十字軍の出発地とされたアンコーナに赴いています。

ローマ教皇ピウス2世

出典:Wikipedia

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イタリア各都市国家の協力はほぼ得られず、教皇死去により遠征は中止。

そんな時代にイスラム教徒のアラブ人と堂々と通商を行っていたのですから凄いとしか言いようがありません。

すでに東方世界とも通商を行っており…というか14世紀の終わりごろには独占していました。

アルテが雇い主のユーリに連れていかれた家に中国の陶磁器らしきものがありましたが、マイセンやウェッジウッドなどの良質なヨーロッパ製陶磁器が誕生するのは18世紀の話で、当時からしたら基本的に輸入物しか無い陶磁器自体が超高級品でした。

『アルテ』の中で名門貴族の息子ユーリがあんなにわかりやすい場所に中国製陶磁器を陳列していたのは社会的ステータスを誇示するためと考えられます。

また、東方からやってくるスパイスは命綱といっても良いほど重要な交易品でした。

ルネサンス時代に豊かな食文化が誕生したのもスパイスが手に入ったということが影響しています。

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アニメ第10話の料理はよだれものでしたね。

前述のとおりヴェネツィア共和国は潟上の島に築かれた特殊な地理環境にあり、交易によって栄えた都市国家です。

通商相手には異教徒の地域も含まれていました。

そんな環境なのでカトリック教会が介入してくると非常に厄介な問題になります。

ですので、ヴェネツィアはフリードリヒ二世やフィレンツェがそうしていたように政教分離を徹底していました。

また、彼らが賢かったのは政教分離を行いながらも、大勢力であるカトリック教会のご機嫌を損ねないように上手くバランスを取っていたところにあります。

ローマ・カトリック教会と距離を取ってはいましたが、中世以降のカトリック教会において正統信仰に反する教えを持つ(異端である)という疑いを受けたものを裁く異端審問会の設立までは拒否しませんでした。

中世の異端審問はでっち上げだろうと思い込みだろうと告発された時点でアウトです。

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

中世の魔女狩り裁判で罪のない人が何人も犠牲になったであろうことは想像に難くありません。
魔女狩り

出典:Wikipedia

ただし、ヴェネツィアの異端審問委員会は審問の際に委員が1人でも退席したら流会になるという規則になっていました。

審問委員会の会員は聖職者と俗人で構成されていました。

聖職者があーだこうだと難癖をつけて誰かを異端であると訴えると俗人側の委員が退席してお流れになるという具合です。

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

「中止」ではなく「流れる」だけなので表立った犯行にはなりません。実に賢いですね。

誇張でもなんでもなく当時のイタリア半島において最も先進的な地域だったのでしょう。

ヴェネツィア共和国はとにかく自由を重んじる気風でした。

ヴェネツィア共和国

出典:Wikipedia

当時は「脱獄したらヴェネツィアに逃げろ」と言われていたほどだそうです。

自由を重んじたヴェネツィアでは言論の自由も認められていました。

言論の自由が認められていたということは、キリスト教会からの弾圧や干渉を受けないということです。

キリスト教徒にとっての最大の脅威は「破門」です。

破門されると洗礼を受けられず、結婚もできません。

ですが、ヴェネツィアには言論の自由があったので教会得意の「破門するぞ」という脅しが効きませんでした。

結果、中世のヨーロッパで猛威を振るった異端審問も魔女裁判もヴェネツィアで一件も起きませんでした。

豊かな土地が生産をもたらす農村部と違い、都市国家の財産は人的資源です。

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

自由に考え、発言できる気風がヴェネツィア共和国の発展を支えたわけですね。

アニメで使用人に混ざって貴族らしからぬ振る舞いをしているカタリーナも自由を重んじるヴェネツィア人気質なのかもしれません。

通商で栄えた一方、ヴェネツィアは美術についてはフィレンツェに後れを取っていました。

しかし、ルネサンスも後期の方になるとティツィアーノ(1488/1490頃-1576)、ティントレット(1518-1594)と言ったヴェネツィア派の巨匠を輩出しています。

アニメ第9話でアルテがメイドのダフネに案内されて教会に絵を見に行くシーンがありましたが、あれは明らかにティツィアーノの「聖母被昇天」です。

「聖母被昇天像」

出典:Wikipedia

作中では明言されていませんでしたが、2人が行ったのは「聖母被昇天」が収蔵されているサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂だということになります。

サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂の竣工が1338年。

サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂

出典:Wikipedia

『アルテ』はたぶん1522年が舞台なので、当時でも築200年近い歴史的建造物だったということになります。

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

いやー凄いですね。

ちなみにティツィアーノは同じモチーフの作品をもう一点残しており、それはクロアチアのドゥブロヴニクにあります。

かつて同じように海商都市国家ラグーサ共和国だったドゥブロヴニクはヴェネツィアと距離的に近かったため活発な行き来がありました。

ヴェネツィア主権下だった時代もあるので、ヴェネツィアからは相当な影響を受けています。

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

自慢じゃないですが、筆者はドゥブロヴニクの「聖母被昇天」は観ました。

いまや観光業のみが基幹産業となったヴェネツィアですが当時の名残は残っています。

ヴェネツィア人はゆっくりした口調で話すと言われていますが、これは波や風の音に邪魔されても理解してもらえるように根付いた習慣だと言われています。

また、特殊な地理環境ゆえに水上が主な交通手段となっているヴェネツィア人は車の運転が下手だと言われています。

ゴンドラ

出典:Wikipedia

ユーリがヴェネツィア人と外国人の見分け方を「ゴンドラの上で立っているのがヴェネツィア人で座っているのが外国人」と語っていましたが、後の時代にこの地に滞在したゲーテ(1749-1832)は「近頃はヴェネツィア人のようにゴンドラの上で立っていられるようになった」と嬉しそうに綴っていたとか。

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

最後に余談ですが、アニメ8話でアルテがゴンドラに乗っているシーンがあります。

『アルテ』の舞台はおそらく16世紀の前半ですが、ゴンドラから見えるヴェネツィアの街並みはシンプルな造形の建物が並んでおり、おそらくは14世紀様式です。

15世紀様式と16世紀様式はもっと装飾が派手なので少し違和感がします。

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

この辺は調べてもよくわからなかったのですが、16世紀前半ならまだ14世紀様式が残っていたのかもしれません。誰かわかる人がいたら教えて欲しいです。

『アルテ』にまつわる文化知識:ルネサンス期の芸術家

画家=職人

「芸術家」と言うと誰にも媚びない孤高の存在というイメージがありますが、アニメでも描写されている通り当時の芸術家はパトロンに援助してもらったり、注文を受けて注文通りの作品を作るという「職人」と言った方がしっくりくる存在でした。

芸術家になるにはまずアルテやアンジェロのように工房に弟子入りし、そこで下働きから経験を積みます。

絵だけ、彫刻だけ、建築だけやるということは許されず、お祭りの旗、宝飾品、ご婦人方の衣装など注文があれば何でもやりました。

当時のフィレンツェでは作業工程も分業化されておらず、図面を引く、金属を炉で溶かす、絵の具を調合するなど必要な工程のすべてが工房で行われました。

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

ヴェネツィアでは分業制ができていたそうですが。

フレスコ画を製作するなら漆喰も自分で塗るし、カンバスも自分で作ります。

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

アニメで描写されていた通りですね。

工房で一通りの経験を積んで独立した後、ようやく自分の得意分野で勝負できます。

ですが、ルネサンスの巨匠たちは工房で様々な経験を積んでいます。

他分野に通じたダ・ヴィンチやミケランジェロの下地はこうして作られたわけですね。

このように当時の芸術家は実質、雇われ仕事をする職人だったわけですが、大物になれば仕事を選ぶことはできたようです。

マントヴァ侯妃イザベッラ・デステ(1474-1539)という大物政治家はダ・ヴィンチにちゃんとした肖像画を描いて欲しいと再三にわたって依頼していますが、結局ダ・ヴィンチが残したのは素描だけでした。

イザベラ・デステ

出典:Wikipedia

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

こんなことが許されたのはダ・ヴィンチが超がつくほどの大物だったからかもしれないですが…。

アルテ』ではアルテがしばしば肖像画を注文される場面がありますが、肖像画を描くのは重要な職人仕事でした。

当時はまだ写真が無かったので、絵画以外に自分の姿を残す方法がありませんでした。

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

当時の画家はカメラマンとカメラの代役でもあったわけですね。

ルネサンス美術の大傑作であるダ・ヴィンチの「モナ・リザ」が商人の妻であるリザ・デル・ジョコンド(1479-1542)を依頼によって描いたものなら、大巨匠であるラファエロ(1483-1520)もパトロンだったローマ教皇ユリウス2世(1443-1513)の肖像画を描いています。

ユリウス二世 ラファエロ

出典:Wikipedia

ルネサンスの一派である初期フランドル派の巨匠ヤン・ファン・エイク(1395頃-1441)の代表作「アルノルフィーニ夫妻像」はイタリア人商人の夫妻から依頼されて描かれたものです。

肖像画を描く職人仕事は後の世にもしばらく残り続けます。

バロック期の巨匠、レンブラント・ファン・レイン(1606-1669)の代表作「夜警」はアムステルダム市民隊(自警団)隊長の依頼で描かれた集団肖像画。

『夜警』

出典:Wikipedia

同じくバロックの巨匠ディエゴ・ベラスケス(1599-1660)の代表作「ラス・メニーナス」もマルガリータ王女(1651-1673)を中心にした集団肖像画です。

ニコ・トスカーニニコ・トスカーニ

絵の左端で絵筆を持ってるのはベラスケス本人だとか。これらは現代ならば写真館に行って撮る記念写真みたいなものでしょうか。

教会からの注文も重要な仕事でした。

教会からの注文は=宗教画でしたが、宗教画は教養が無いと書けないため肖像画より一段格上の仕事と見做されていました。

作中でアルテはまだ宗教画を手がけていませんが、彼女はまだ高等な仕事を任せる存在と見做されていないということでしょうね。

ルネサンスは美術だけでなく、音楽も発展しましたが音楽家も事情はだいたい一緒です。

この時代の音楽家の多くが教会に雇われていました。

そのため、ルネサンス音楽の中心的なレパートリーはカトリック教会の典礼のための音楽です。

イタリアルネサンスを代表する音楽家と言えばジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ(1525-1594)ですが、パレストリーナは多くの宗教音楽を手掛け「教会音楽の父」と呼ばれています。


ルネサンス音楽最大の巨匠と言えば、フランスのジョスカン・デ・プレ(1450/1455?-1521)ですが、代表作である「アヴェ・マリア」はタイトルから容易に想像がつく通り宗教音楽です。

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私はそこそこ熱心にクラシックを聞いていますが、デ・プレの「アヴェ・マリア」はルネサンス時代を代表する名曲だと思います。


作曲家が自分の書きたい曲を書いて自分で売り込むようになったのはベートーヴェン(1770-1827)以降の話です。

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ベートーヴェンは音楽自体も音楽史を塗りかえる革新的な物でしたが、生き方も革新的だったわけですね。

ルネサンスの女性画家

ルネサンスが発展の時代だったとはいえ、すべてが変わったわけではありませんでした。

劇中でもしつこいぐらい描写されているように女性は思い切り差別されていました。

差別されていたので財産を相続できませんでした。

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アルテは貴族の出身ですが、財産を相続できないのからこそ思い切った行動を取れたという側面もあったのでしょうね。

ヴェネツィアのパートではカタリーナが父親からまるで関心を向けられていないような描かれ方をしていますが、当時からしたら自分の子どもでも女の子にはまるで興味が無いということは珍しくなかったようです。

前述したマントヴァ侯妃イザベッラ・デステは3人の息子と3人の娘がいましたが、彼女は3人の娘に対してまるで無関心でした。

長女のレオノーラはウルビーノ公に嫁がせていますが、ほかの2人については「持参金が勿体ない」というとんでもない理由で尼僧院に入れられています。

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今なら完全に人権問題ですね。なお、女性側が持参金を用意する習慣は、古代ギリシャや古代ローマからあったらしいです。

女性は就ける職業も事実上限られていました。

お針子、家庭教師、メイド、娼婦、修道女です。

他にもビールの醸造とか、農家とか細かく色々ありますが決して多岐にわたっていたわけではありません。

アルテ』劇中だとダーチャはお針子、ヴェロニカは高級娼婦、ダフネはメイド、アルテはヴェネツィアで家庭教師になっていますので、当時の女性が就ける職業がほぼ勢ぞろいしています。

この状況はもっと後の時代になってもあまり変わりませんでした。

19世紀イギリスの女流作家シャーロット・ブロンテ(1816-1855)は「ジェーン・エア」の主人公をガヴァネス(住み込みの家庭教師)に設定していますが、これはブロンテ自身の経験に基づいています。

ガヴァネスは当時の女性が就くことのできた数少ない仕事でした。

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『アルテ』でもカタリーナの家庭教師に住み込みと通いがいると描かれていましたが、アルテを含む住み込みの家庭教師は後のガヴァネスということですね。

また、高級娼婦のヴェロニカは非常に教養の深い人物として描写されていますが、江戸時代の日本でも最高級の娼婦は「太夫たゆう」と呼ばれ、高級な客を相手するので芸事や教養に通じていることが求められました。

古代メソポタミアには「神聖娼婦」と呼ばれる職業があり、これはほぼイコール巫女です。

神聖娼婦

出典:Wikipedia

職業に貴賎なしと言いますが、風俗産業はもともと決して卑俗なものではなくむしろ高級なポジションであったことが伺えます。

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娼婦は世界最古の職業とも言われていますね。

お針子もずっとヨーロッパでは女性の仕事でした。

ジャコモ・プッチーニ(1847-1906)のオペラ「ラ・ボエーム」は19世紀も末の作品ですが、ヒロインのミミはお針子です。

プッチーニは20世紀まで生きた人物ですが、そんな後の時代でもお針子は女性の仕事だったんですね。

そんな時代にアルテのような女性画家は実在したのでしょうか?

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実在しました。

ルネサンスは少ないながらも女性の芸術家を輩出しています。

活版印刷が広まる以前、書籍はすべて写本でした。

特に装飾写本は初期には修道院で制作されており、女性の修道士がその分野に参入しました。

そのような背景のもと、ボローニャの聖カタリナ(1413-1463)のような初期の女性芸術家が登場します。

聖カタリナは装飾写本だけでなく絵画も残しています。

アルテは16歳の設定ですので、素直に考えると1506年生まれです。

では、アルテと同世代の女性画家は存在したのでしょうか?

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これも実在しました。

ネーデルランド地方(今のベルギー、ルクセンブルク、オランダ)は、修道院が多く、装飾写本制作が盛んであったため、比較的多くの女性芸術家を輩出することとなりました。

一説では、ネーデルランドの当時の写本制作者のうち4人に1人は女性だったとか。

もっとも多くの方がご存知の通り、ルネサンスの三大発明の一つにヨハネス・グーテンベルク(1398-1468)による活版印刷術があります。

活版印刷術

出典:Wikipedia

写本が手書きから印刷に変わったことで写本は印刷工房で作られるようになり、女性の作家はほとんどいなくなってしまいました。

劇中のダーチャの発言から書物はまだまだ高価な品だったことが窺えますが、当時のイタリアにはすでに印刷所が存在しており一定の存在感を保持していたことは間違いありません。

アルドゥス・ピウス・マヌティウス(1450年頃-1515)は1494年にアルド印刷所をヴェネツィアで設立しており、100点を超えるギリシア、ラテンの古典を活字で出版しています。

そのような逆風が吹く状況下で有名な装飾写本作家の娘として生まれたのがレヴィーナ・テイルリンク(1510-1576)です。

彼女は父親から美術の手ほどきを受けたと考えられており、結婚後30代半ばで渡英。

イングランド王ヘンリー8世(1491-1547)の宮廷画家になり、「エリザベス1世の肖像」などの絵画を残し以降の生涯をイギリスで過ごしています。

『エリザベス1世の肖像』

出典:Wikipedia

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レヴィーナはアルテとは4歳違い。完全に同世代の女性画家ですね。

もちろん、ルネサンスはイタリアからも女性アーティストを輩出しました。

プラウティッラ・ネッリ(1524-1588)、ソフォニスバ・アングイッソラ (1532-1625)、ルチア・アングイッソラ(1536-1565)、ラヴィニア・フォンターナ(1552-1614)、バルバラ・ロンギー(1552-1638)、マリエッタ・ロブスティ(1560?-1590)などがその例です。

ロブスティはヴェネツィア派ルネサンスを代表する巨匠ティントレットの娘で、ティントレッタの愛称でも知られています。

彼女たちはアルテより下の世代ですが、ひょっとしたらアルテのような名も無い女性がどこかの工房で活躍して彼女たちが活躍する下地を作ったのかもしれません。

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原作者の大久保先生も女性ですしね。そんな想像ができるのも歴史のロマンです。

『アルテ』の文化知識まとめ:魅力たっぷりのイタリア

ルネサンスは世界史でも最も面白い時代の一つであり、これだけでも山ほどの文献が存在する重要な時代です。

アルテ』自体は日常物ですが、その背景にあるものにはいくら調べても興味が尽きないほどの魅力があります。

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私はイタリアをずっと敬して遠ざけてきたのですが、アニメを見て調べものをしていたら猛烈にイタリアに行きたい欲求が湧いてきてしまいました。

イタリアに行けるその日まで、資料と漫画とアニメで十分に期待を膨らませておきたいと思います。