作品の舞台は、パリ。
アパート経営などで生活をする24歳のダヴィッドの目線で物語は展開していきます。
突然パリを襲ったテロによってダヴィッドは姉を失い、姪であるアマンダの保護者となることを余儀なくされます。
- 様々な瞬間に涙を流す人々の様子とリアリティ
- 互いの悲しみを理解して、支え合うアマンダとダヴィッドの姿
- 人々の生活に焦点を当てたミカエル・アース監督の手法
「喪失と再生」は、様々な映画で描かれる重要なテーマのひとつです。
しかし、必死に立ち直ろうとする人々の些細な日常や、見落とされそうな瞬間に、ここまで焦点を当てて描こうとする作品はなかったように思います。
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目次
『アマンダと僕』作品情報
作品名 | アマンダと僕 |
公開日 | 2019年6月22日 |
上映時間 | 107分 |
監督 | ミカエル・アース |
脚本 | ミカエル・アース モード・アメリーヌ |
出演者 | バンサン・ラコスト イゾール・ミュルトリエ ステイシー・マーティン オフェリア・コルブ マリアンヌ・バスレール ジョナタン・コエン グレタ・スカッキ |
音楽 | アントン・サンコー |
【ネタバレ】『アマンダと僕』あらすじ・感想
『アマンダと僕』と『悲しみに、こんにちは』
『アマンダと僕』は、テロというテーマを扱った作品ではありますが、全体の映画としての雰囲気は決して重苦しいものではありません。
主人公たちが生きる日常の一つ一つを丁寧に切り取って、大切な人がいなくなった悲しみをどうにかして乗り越えようとする日々の様子を描いています。
『アマンダと僕』は、2018年の夏に日本でも公開された映画『悲しみに、こんにちは』と共通点があるような気がしています。
観終わった後に受け取る感覚としても、かなり近いものがありました。
どちらの作品も、心のなかで生き続ける宝物のような映画です。
『悲しみに、こんにちは』は少女フリダが自らの両親を失くした悲しみを乗り越える姿が幼い目線で捉えられた作品です。
『アマンダと僕』では、アマンダの目線はもちろん、アマンダの成長を見守る大人たちの視点からも物語が描かれています。
フリダもアマンダも、予期せぬ形で親を失い、別の大人と生活することになりました。
そしてその過程では、子どもだからこそ、抱えきれないほどの苛立ちや悲しみに直面することになるのです。
幼い子どもの目線や感情を交えた映画は、みずみずしく、時にハッとさせられるほどリアルです。
大人が受け止める悲しみと、子どもが感じ取る悲しみの些細な違いも、この2つの映画のなかでは描かれているように思います。
『アマンダと僕』における涙の描写
『アマンダと僕』のなかでは、登場人物が泣くシーンが本当に何度も登場します。
ダヴィッドがテロから一夜明けた朝、アマンダを連れて公園に散歩に出かける場面。
公園のベンチに腰掛け、何が起こったのかをアマンダに説明しようとするのですが、涙で言葉がつっかえてしまいます。
「男たちが銃を持って大勢の人たちを撃った…ママにはもう会えない。」
とアマンダにやっとの思いで説明するダヴィッド。
しかし、アマンダは、「何でそんなことをしたの?」「いつママに会えるの?」と問いかけます。
公園を離れ、再び歩き出す2人。
少しするとアマンダは足を止めてしまいます。
ダヴィッドが後ろを振り返ると、涙を流すアマンダの姿がありました。
7歳の少女にとっては、「テロ」も「死」も、理解することが難しい出来事です。
ダヴィッドが泣いているのを見ても涙することはなかったアマンダ。
しかし、少し時間をかけて自分なりにダヴィッドの言葉の意味を考えて、初めて涙が出たのです。
大人と子どもの悲しみを飲み込むまでの時間の差を見事に引き出していたシーンだと感じました。
また、アパートにやってくるゲストのために、駅でボードを掲げて持つダヴィッドが堪えきれず涙してしまうシーンには深く胸を打たれました。
日々の生活や仕事を何とかまっとうしようとするダヴィッドも、喪失感を抱えています。
ダヴィッドには、テロの前に出会い、恋に落ちたレナという女性の存在がありました。
レナもまたテロによって心身を傷つけられ、ダヴィッドとパリで生きていくことではなく、実家に帰るという決断をしていたのです。
姉との別れ、そしてその傷を癒すかもしれなかった恋人レナとの別れ。
アマンダの前では気丈に振る舞おうとしていたダヴィッドにも、大きな悲しみはのしかかっているのです。
監督によれば、駅でダヴィッドがむせび泣くシーンはもともと脚本にはなかったもので、即興だったそうです。
悲しみは、自分も予期しないような場面で突然訪れることがあります。
電車に揺られて色々なことを思い出し、涙がこぼれてしまうようなこともあります。
そんな風に、悲しみが時間を経ても、何かのきっかけで一気に押し寄せること。
駅で耐え切れなくなってしまうダヴィッドの姿は、とても真実味があり、自分自身の記憶も呼び起こされるような瞬間でした。
アマンダとダヴィッドの変わりゆく関係性
『アマンダと僕』では、ダヴィッドとアマンダの会話が本当に丁寧に描かれています。
そして、2人の会話から、私たちはダヴィッドとアマンダの関係が徐々に変わっていくことを理解するのです。
テロの直後、ダヴィッドにとってアマンダを引き取るということは信じられないような選択でした。
24歳のダヴィッドが突然7歳の少女の面倒を見る、ということがどんなに難しいことかは想像に難くありません。
ダヴィッドは、友人にも「まだ心の準備ができていない、誰も頼る人がいない。」と本音を吐き出していました。
しかし、そんなダヴィッドの心を変えていったのは、他でもないアマンダの懸命な姿だったのです。
はじめはダヴィッドの家だけでなく、叔母の家にも預けられていたアマンダ。
自分がどちらの家で過ごすのか分からない不安さから、「帰らない、あっちこっちは嫌。わたしは誰と住むの?」と迎えにきたダヴィッドに感情をぶつけます。
ある日には、「叔母の家に行きたくない、おじさんと一緒が良い。」と泣きそうな顔で訴えるアマンダ。
ダヴィッドにも友人との約束があり、どうしてもアマンダと過ごすことができません。
そんなダヴィッドの事情も何とか飲み込んで、アマンダはダヴィッドにハグをするのです。
一番の多感な時期に親を失ったアマンダ。
きっと、ダヴィッドとはずっと一緒にいたいはずです。
しかし、そんな気持ちをグッとこらえるアマンダの姿はとてもせつなく、彼女の心が成長しようとしているようにも見えました。
そんなアマンダの成長は、確実にダヴィッドの心を動かし、そして彼が生きる糧にもなっていました。
特に象徴的だったのは、ダヴィッドがアマンダを迎えに行った際の彼の視線です。
アマンダは他の子どもたちと学校でドッヂボールをしており、それを本当に愛おしそうな目で見つめるダヴィッド。
しばらくアマンダに声をかけずに、彼女が楽しそうにしている様子を見守ります。
途中、アマンダがダヴィッドに気づいて、頬をゆるめ、一目散に駆け寄ってくるのです。
このシーンは、まさにダヴィッドのなかにアマンダへの本当の愛情が芽生えていたことが分かるような瞬間でした。
そして、アマンダとダヴィッドがロンドンへ旅行に行く終盤の場面。
2人でテムズ川沿いをサイクリングしながら、その時間を存分に楽しみます。
自転車から降りて、テムズ川を見下ろしながらダヴィッドとアマンダは会話を重ねるのです。
「いつまで一緒にいるの?」と問うアマンダに、「少なくとも18歳までは。」と返すダヴィッド。
すかさず「毎日?」と尋ねるアマンダに、「毎日だよ。」とダヴィッドは笑います。
「これからも一緒にいて耐えられそう?」と今度は逆に尋ねるダヴィッドに対して、「今に分かるわ。」とアマンダが大人びた様子で返すのです。
テロの後、様々な日常を積み重ねて、アマンダとダヴィッドがお互いに一緒に生きていくことを望むような様子が伝わってくる会話です。
彼らの間には、戸惑いよりも、お互いに支え合う相手として慈しむような空気がありました。
ここまで重ねてきた時間は、2人にとってどれも無駄ではなかったのです。
“Elvis has left the building.”
“Elvis has left the building.”
このフレーズは、映画の中の大切なキーワードとなります。
映画の冒頭で描かれる、アマンダと母親のサンドリーヌが家で過ごす時間。
アマンダは机の上にあった本のタイトルの意味を母親サンドリーヌに尋ねます。
本の表紙には“Elvis has left the building.”の文字。
サンドリーヌは、エルヴィス・プレスリーがコンサートを行った後、ファンがなかなか会場を離れなかったことから、“エルヴィスはもう会場を去りました”というアナウンスがされていたことをアマンダに説明します。
そのことが転じて、“望みはない、おしまいだって意味よ”と話すサンドリーヌ。
何とか言葉の意味を理解するアマンダ。
ここでサンドリーヌは、実際にパソコンでエルヴィスのアナウンスを流し、アマンダと一緒にエルヴィスの曲で踊るのです。
サンドリーヌがアマンダの好奇心に寄り添ってあげる優しさ。
そして、アマンダが心からサンドリーヌとの時間を楽しんでいる姿が切り取られた素晴らしいシーンでした。
母から教えられたエルヴィスの言葉は、思わぬかたちで終盤に登場します。
アマンダとダヴィッドは、サンドリーヌが買ってくれていたチケットでテニスを観るため、ウィンブルドンに小旅行に出かけます。
コートのなかで展開される一対一の試合。
片方の選手は押されていて、スコアは40-0に持ち込まれてしまいます。
コートの選手の激しい攻防と、真剣にそれを見つめるアマンダの顔が交互に映されるカメラワーク。
アマンダが自分の悲しみや、自らが置かれた状況と、目の前のテニスの試合を重ね合わせていることが伝わる素晴らしいシーンでした。
試合の様子を観ているアマンダの目からは、急に大粒の涙が溢れ出します。
「どうしたの?」と驚くダヴィッドに、「エルヴィスは会場を出た、もうおしまいよ。」と泣きながら答えるアマンダ。
しかし、目の前の試合では劣勢だった選手がスコアを返し、会場は盛り上がりを見せます。
試合は終わりではないと知ったアマンダは、徐々に笑顔を見せ、ダヴィッドと笑い合うのです。
母サンドリーヌとの記憶が、アマンダの中には生きています。
そして、サンドリーヌが教えてくれた大切なフレーズが、アマンダの目の前で繰り広げられている試合の展開とふっと重なり、それがどうしようもない悲しみとなったのです。
エルヴィスは会場を去りましたが、アマンダの目の前では試合は続きます。
そして、アマンダのこれからの人生は、ダヴィッドと共に続いていきます。
大変なことも、悲しいことも、乗り越えられないと思う夜もたくさんあるかもしれません。
それでも、ダヴィッドとアマンダの人生は続いていく。
涙をふいて前を向くアマンダと、その様子を見守るダヴィッドの姿に、どうしようもなく励まされました。
ウィンブルドンでのカットがラストシーンとなり、映画はエンドロールに入りますが、BGMからは再び“Elvis has left the building.”と歌う声が聞こえてきます。
これは、ここまで映画を観てきた観客の私たちにとって大きなサプライズでした。
エンディングの曲は、イギリスのバンド「パルプ」のフロントマンであるジャーヴィス・コッカーによって手掛けられたものです。
監督がバンドの大ファンであったことから、今回のアマンダのシナリオを送ってコラボレーションが実現したのだそうです。
映画が幕を閉じたと思った瞬間このフレーズが流れ、思わず笑顔になってしまいました。
アマンダとダヴィッドの人生が、私のなかでもずっと生き続けるようなそんな感覚に陥ったのです。
失われた日常と生き続ける人々
『アマンダと僕』は、「喪失と再生」をテーマに描かれています。
しかしながら、テロに関連するような描写は意図的に最小限に抑えられていると言えます。
テロが起こったその日。
ダヴィッドが自転車をこぐパリの街は普段と変わりありません。
風を切って走るダヴィッド、ゆったりと大通りのカーブを曲がり、公園へと向かいます。
しかし、ここで映画は無音となり、明らかに異変が起こっていることに気づかされます。
すると、次の瞬間に画面に映し出されるのは血だらけの人々。
芝生に横たわりながら血を流す人や、動かない飼い主の横で鳴く犬。
このシーンが『アマンダと僕』の唯一の直接的なテロの描写です。
このテロでアマンダの母親は犠牲となり、ダヴィッドの友人たちも重軽傷を負いました。
しかし、母親の葬式や、テロの直後の友人たちの様子は、この後の物語では映し出されません。
描かれているのは、松葉づえをついてリハビリにいそしむ友人や、病院から退院するレナとの再会。
考えてみれば、『アマンダと僕』は、人々がやっとの思いで日常に戻ろうとするその瞬間を切り取っているのです。
テロの後、ダヴィッドが友人とカフェにいる場面。
テレビではイスラム過激派の犯行と思われるというテロップが流れます。
テロがイスラムと関連したとあえて情報を出す描き方に少し懐疑的な気持ちになりましたが、この描写にも意味がありました。
終盤、アマンダとダヴィッドが公園に遊びにいく場面で、2人はヴェールをかぶった女性とその夫が通行人に責められているような様子を目撃します。
アマンダは、「服装のせい?」とダヴィッドに疑問を投げかけます。
テロを理由として、偏見を持たれるような人々がいることは、テロの脅威の前に忘れ去られてしまいそうになります。
しかし、その点をしっかりと描いたミカエル・アース監督の意識は素晴らしいものです。
テロそのものにフォーカスし、事件に関連した描写を多く盛り込むことも当然できたのだと思います。
しかし、ミカエル・アース監督は、人々の日常生活を一瞬にして奪った出来事の描写を最小限にとどめました。
スクリーンの前の私たちは、突然挿入された凄惨な描写にショックを受けます。
ある瞬間に、脈絡もなくやって来るその恐怖を、身をもって体感します。
淡々と続いていく日常の間に挟まれる、理解のできないような不条理な出来事。
テロが起こる前の日にも、次の日にも、人々の日常は続いているのです。
そして、映画のなかでは描かれることがなかった母親との別れの瞬間や、友人たちが病院に運び込まれる様子を想像します。
プログラムのインタビューで、監督が自身の映画の撮り方について述べている言葉が印象的です。
「私は、台風の目よりも、静けさや回り道を通しての方が、より真実に近づけるという気がしています。」
監督は私たちに想像の余地を与え、日常と非日常の間に生まれた突然の境目を理解するきっかけを与えてくれたのではないでしょうか。
『アマンダと僕』は、悲しみと生きるすべての人に寄り添い、周囲の人が抱える困難について想像する優しさをもたらしてくれるような作品です。
『アマンダと僕』あらすじ・ネタバレ感想まとめ
『アマンダと僕』、今日2回目を観て、1度目と同じようにずっと心を掴まれていた。この映画のラストシーン、この先忘れることはないと思う。1週間の間に同じ映画を再度観たのは子どものとき以来… pic.twitter.com/jcfJSwE0o4
— kana🌿 (@somewhere_togo) July 5, 2019
以上、ここまで映画『アマンダと僕』について紹介させていただきました。
- アマンダとダヴィッドの関係性が映し出すひとつの希望
- リアリズムを失わずに、一貫して描かれる優しい視線
- 人が寄り添って生きる過程と、その意味について丁寧に描き出した傑作
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